2021年2月にスタートするNHKの大河ドラマ「青天を衝け」は、実業家・渋沢栄一の生涯をたどる物語だ。「日本資本主義の父」といわれる渋沢は、なぜ1人で500社もの会社を立ち上げることができたのか。歴史好きとして知られるお笑い芸人のビビる大木さんが解説する――。

※本稿は、ビビる大木・著『ビビる大木、渋沢栄一を語る 僕が学んだ「45の教え」』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

渋沢栄一像(埼玉県深谷市・深谷駅前=2019年07月)
写真=時事通信フォト
渋沢栄一像(埼玉県深谷市・深谷駅前=2019年07月)

信念は「良い運は、良い人のご縁から」

渋沢栄一さんは「偶然というご縁」を大切にする人だったと言います。「良い運は良い人とのご縁から生じる」が彼の信念だったそうです。

渋沢さんは、江戸時代末期の1840(天保11)年に、現在の埼玉県深谷市に生まれました。生家は畑作や養蚕、藍問屋業などを手掛けていた農商家でした。幼い頃から勉強好きで、7歳で『論語』を読んだそうです。

渋沢さんの人生を野太いものにしたのは、一つは農民として生まれたこと。もう一つはかなり恵まれた教育環境でした。渋沢さんの中で、当時の幕藩体制や身分制度、世の中の矛盾に「なぜ?」と強烈な疑問が育まれた理由は、そこにありました。

「退く」ことの大切さを知っていた

ただ、渋沢さんは勉強ばかりしていたわけではありません。剣道で心身を鍛え、14歳の頃にはすでに藍葉商として大人顔負けの目利きになっていました。この頃に、渋沢さんは商売の感覚を身につけたのです。世の中を知る中で、彼の疑問や不満は、次第に怒りへと変わっていきます。

ビビる大木さん
ビビる大木さん(撮影=大沢尚芳)

渋沢さんの人生を俯瞰ふかんすると、僕には彼が強運の持ち主に見えます。彼は激動の時代にあって改革を進めながら、実に91歳という長い生涯を得たからです。渋沢さんは、「引く」「退く」ことの大切さを知っていたように思います。

「押し」過ぎは自滅のもとです。実は渋沢さんは幕末の頃に、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという倒幕計画を立てましたが、結局、実行しませんでした。彼は直前に、「引いた」のでした。

強運と「退く」ことの大切さを知っていた渋沢さんは明治維新後、明治新政府の官僚になりますが、ほどなく辞して、日本経済の隆盛のために次々と会社を興していくのです。

三菱創業者・岩崎弥太郎との大きな違い

明治から大正にかけて活躍した実業家である渋沢さんは、その生涯において500社を数える企業の設立や運営などに関わったと言われています。まさに、「日本資本主義の父」と言えます。

それでは、なぜ、渋沢さんは500社も創業することができたのでしょうか。僕はいろいろと関連書籍を読みながら、その理由を自分なりに探しました。そこで得た結論は、「渋沢さんは独り占めしない。独占しない」というのが、理由ではないかと思いました。