アメリカ人は「年間2000リットルの石油を飲む」

それを知りたければ、肥料や農薬とはいったい何からできているのか、原材料を知ることが大切になる。ほとんどの人は知らないと思うが、化学肥料や化学農薬の原料は、実は原油と天然ガスだ。つまりプラスチックと同じように、肥料も農薬も実は石油からつくられている。

言い換えると、我々は石油から米や野菜を作っている。ある研究者の試算によると、アメリカ人は一人あたり、年間2000リットルの石油を飲んでいる計算になるという。作物とは、今や土によって育つのではなく、石油によって育てられているのだ。

肥料や農薬だけではない。トラクターの燃料、ビニールハウスの暖房、作物の輸送、農業のあらゆる場面で石油が必要になっている。となると、その石油はどこから手に入れているのだろうか。当然海外からの輸入だ。もし戦争とかになって、海外からの輸入がストップするという事態になれば、肥料も農薬も手に入らなくなる。日本でコメや野菜を作ることがほぼ無理になる。

作れるのは、昔ながらの堆肥や漁肥で作れる分だけだ。そうなると、1億人を養うのはとても無理だ。この狭い国土で、堆肥だけで養える人口は、おそらく江戸時代ぐらいの人口が限界だろう。

自給率よりも「多角的なチャンネル」が重要

多くの人は、食糧自給率を高めておけば、戦争などで輸入がストップしても、なんとか国産の食料だけで生き延びることができる、と信じている。しかし、このグローバル化の時代にあっては、それは正しくはない。輸入がストップしてしまえば、コメや野菜もすべて作れなくなってしまう。自給率がいくら高くても、そんなことは関係なく、日本はたいへんな食糧危機に陥ってしまうのだ。

食料安全保障という視点に立つならば、「いかに食糧自給率を高めるべきか(つまり国産の割合をいかに高めるか)」を追求するよりも、「そもそも輸入がストップしないようにするには、どうしたらよいか」を考える方が理にかなっているだろう。

つまり、戦争などが起きて、A国からの輸入がストップしてしまったときには、すぐさまB国から輸入できるように、普段から諸外国との連携を密にし、多角的なチャンネルを構築しておくことが望ましい。

グローバル化した現代にあっては、一国だけで食料のすべてをまかなおうという発想は現実的ではない。そのため、もはや先進諸国は「食糧自給率」という数値にそれほどこだわってはいない。国連(FAO)もそんな数値は発表していない。もちろん穀物自給率や食料バランスシートぐらいは、発表している。

餌までさかのぼった計算は無意味

でも、日本のように総合的な食料自給率をわざわざ作成し、それを前面に押し出して、毎年政府発表している国など他にない。ましてや餌にまでさかのぼって計算している国などあるはずがない。意味がないとわかっているからだ。

日本のカロリーベース自給率の矛盾点をもう一つ指摘するなら、さきほど、日本の農地をフル活用しても、自給率50%を超えるのは無理だ、と述べた。だが、実は1つだけ方法がある。それは、日本人の食生活を第二次世界大戦と同じレベルにまで落とすことだ。

つまり、肉も魚も食べるのをやめて、油も砂糖も牛乳も卵も使わない。パンやお菓子やケーキやまんじゅうなどの贅沢品は一切食べない。ジュースも飲まない。お酒も飲まない。食べるものといえば、芋とコメだけ。飲むのは水だけ。そういう生活をするならば、自然と自給率の数値は上がる。90%越えも夢ではない。でも、それがはたしてみんなが目指している「食料自給率が向上した姿」だろうか。

生産額ベースでは「自給率66%」

こうして順を追って検討してみると、いったい食料自給率とはそもそも何なのだろう、と考え込まざるを得なくなるだろう。いったいこの数値にどれほどの意味があるのだろうか。とくにカロリーベースという不思議な計算方法をとる意味がまったくわからなくなってくる。

そういう批判もあって、農林水産省は数年前から、「カロリーベース自給率」と並んで、「生産額ベース自給率」も公表するようになった。生産額ベースとは、食料のすべてを金額に換算して、そのうちの何割が国産かを示したものだ。その生産額ベース自給率で見てみると、日本は2017年で66%となっている。カロリーベース自給率の38%と比べると、かなり大きい。

生産額ベースで見るならば、おおよそ7割は国産ということになり、「なんだ、とくに問題ないではないか」という印象になることだろう。実際、イギリスの生産額ベース自給率は58%と日本よりもずっと小さい。ドイツが70%、農業大国フランスでさえも83%、アメリカは92%と、それらの先進国と比べてみても、日本の66%は決して遜色ない。そう、実際のところ日本の自給率は、みんなが信じ込まされているほど、悪くはないのだ。

では、なぜ農林水産省は、カロリーベース自給率にこだわるのだろうか。なぜ世界のどこも使わない不思議な計算方法を発明して、その数値にこだわっているのだろうか。そこには、もちろん明確な理由がある。