人の数だけ気持ちの数があるはず

彼らの言う「人の気持ちがわからない」というフレーズは、「情け容赦ない」「冷血」「冷酷」という意味だろう。それなら、ダイレクトに冷血人間と言えばいい。

「人の気持ちがわからない」と他人に忠告する人たちこそ、人の気持ちがわかっていない。だから人の気持ちもわからずに発言できるのだ。

超能力者や、DaiGo氏のような一流メンタリストを除けば、人の気持ちや考えなどわかるわけがない。わかっているつもりにすぎない。あるいは、人の気持ちがわかると信じたいのだろう。信教の自由があるので、他人を巻き込まずにご自由にやっていただければよろしい。

もし、本気で自分以外の人の気持ちや考えがわかると主張する方がおられるのなら、ぜひとも、そのメソッドを体系化してもらいたい。マジでノーベル賞確実だ。

「人の気持ちがわかる」と考えるのは、おごりである。危険ですらある。基本的人権というものがあるように、僕たちはそれぞれが何かを考えながら、思いながら生きている。

そのなかで、怒ったり、悲しんだりといった感情が発生する。そういう思考とか思慮とか感情みたいなものをひっくるめたものが気持ちとするなら、人の数だけ気持ちの数があるはずである。

僕が我慢ならないのは、ある事象について僕が考えたり思ったりすることをストレートに言葉にしているのに、「それは違うよ!」と指摘されることである。違いがあるのは当たり前である。なぜ、違うからという理由で非難されなければならないの。子供の頃から感じていた疑問の正体である。

「作者の気持ち」もわかるわけがない

子供の頃、国語の授業で先生からこんな質問をされた。

「この文章(小説の抜粋か詩だった)を書いたとき、作者は何を考えていたでしょうか」

「わかるわけがない」と率直に答えたら、まだハラスメントやバイオレンスが横行していた昭和時代である、教師の握っているチョークが飛んでくるか、授業が終わるまで立たされてしまう。コンプライアンスや人権意識が高まっている現在では信じられないが、当時は、肉体的苦痛に訴えて矯正する時代だった。

僕は、わかるわけがない、という自分の考えを押し殺して、「この文章で発生する原稿料や家賃の支払いといった個人的な経済問題のこと、あるいは作者は病気がちだったとされているので自身の健康問題のこと、などについて考えていたと思います」と無難な解答をした。

僕の無難な答えは、授業が終わるまで教室の後ろに立たされる、という哀しい結末を招いた。

この質問を受けたとき僕が分析すべきは、作者の気持ちや考えではなく、先生の気持ちや考えであった。子供だった僕にはそれがわからなかった。あまりにもピュアすぎたのだ。

この悲劇の元凶は、先生の想定していた解答と、僕が考えていたこと、感じていたことが1万光年ほどかけ離れていたことにある。正解も間違いもそこには、ない。あるのは、違い、それだけだ。それでも、正しかったのは自分だと僕は今でも思っている。