ヒエラルキーの上位に君臨する意外な教員

一般社会から見ると「どうして上の者が注意できないのか?」と不思議に感じる。だが、それがなかなかできない。教員は一種の職人だからだ。教員はよくも悪くも一国一城の主といった意識が学校内にはある。

例えば、自分の受け持ちクラスには責任を持つが、隣のクラスのことは知らない。責任も持たない。ゆえに、その指導テクニックは“門外不出の奥義”。さらに、同じ学校内の出来事であっても、そこここに“治外法権”が張り巡らされているなどの特徴がある。

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要は管理職であっても、簡単には「指導」「注意」「警告」という行動には出にくい社会なのだ。

学校には校長と教頭といった管理職は存在するが、トップ以外の教員たちとは互いの「○○先生」と呼び合う横並びの関係に見える。ただ、力関係の上下はしっかりある。「生徒をまとめる能力がある」「学校トップに好かれている」「押しが強い」など、目に見えない“圧力”を持つ教員がヒエラルキーの上層部として君臨するのだ。しかも、一度、ヒエラルキーの下層部に認定されると、意見を言える空気は皆無になるという。

「やるだけ損・やっても無意味」という「ことなかれ教員」を大量産出

加えて、学校は営業成績や前年比などの数字には左右されない世界。逆に言えば、学校や生徒のために身をていして仕事をしたとしても、その貢献度は評価をされにくいのだ。また、よほどでない限りは教員免許も剥奪されず、雇用も安泰だ。

これらが複雑に絡み合い、強固なヒエラルキーが形成され、「やるだけ損」「やっても無意味」という「ことなかれ教員」を大量に産出することになる。そして、そうした空気がやがては東須磨小学校の教員暴行傷害事件といった、一部の教員の暴走を許す土壌となっているのである。