首の後ろから注射器で猛毒

江川さん襲撃の3カ月ほど前、6月27日に松本サリン事件が起こる。死者8人、負傷者約140人。オウムによる無差別大量殺人の幕開けだったが、またしても捜査は迷走する。長野県警は、現場近くに住む、第一通報者の河野義行さんを誤認逮捕してしまうのだ。

警察の失態を嘲笑あざわらうように、オウムの暴走は加速していく。

1995(平成7)年1月1日、読売新聞の一面にスクープが躍った。上九一色村でサリンの残留物が検出されたというのだ。この“元旦スクープ”をきっかけに、警察もようやく重い腰を上げたのか、オウムに強制捜査に入るという情報が流れ始めた。

その直後の1月4日、私が連絡を取り合っていた「被害者の会」の永岡弘行会長が襲われる。

みぞれ交じりの雨が降っていたこの日、永岡さんは自宅マンションの駐車場で車のタイヤを交換し、昼食を済ませたあと、突然苦しみ出す。目の前が暗くてよく見えないと訴え、大量の汗をかいて、のけぞるように倒れ、救急車で大学病院へ運ばれた。脳幹梗塞という診断だったが、翌日の血液検査で有機リン中毒と判明する。

新實や井上嘉浩らと共謀した元自衛官の信徒が、タイヤを交換している永岡さんの首の後ろから、注射器で猛毒のVXをかけたのだ。VXの毒性は、サリンの100倍だという。

嫌がらせの電話「地獄に落ちるぞ」

解毒剤を投与されて、永岡さんはかろうじて一命を取り留め、2週間ほどで退院。江川さんから電話をもらって、私は自宅へ駆け付けた。退院はしたものの、視力は十分に回復せず、握力がない、微熱が続くなど、後遺症は深刻だった。何よりも、事件当時の記憶が完全に欠落している。

例によって、警察は動かない。どころか、「農薬のスミチオンを飲んで自殺を図った」と勝手に判断し、マスコミにもリークする始末だ。そんな中傷にさらしておくわけにはいかないし、再度の襲撃も考えられる。家族にも身の危険があるから、江川さんの依頼もあって、私は都内のホテルに部屋を取り、しばらく一家をかくまうことにした。

オウム真理教「被害者の会」はその後、「家族の会」と名称を変えるが、永岡さんは、いまも後遺症に苦しめられながら、活動を続けている。

先陣を切って批判キャンペーンを始めた『サンデー毎日』は、オウムのすさまじい攻撃を受けた。麻原自ら弟子を引き連れ、編集部に乗り込んだ。それでも連載が続くと、毎日新聞社に街宣車を横付けし、大音量で示威行動に出る。

牧太郎編集長の自宅には、「地獄に落ちるぞ」といった嫌がらせの電話が、朝から晩まで鳴りっ放し。最寄り駅までの道筋に立つ電柱には、「でっち上げはやめろ」と大書された、牧さんの写真入りのビラが貼られたという。毎日新聞の社屋に爆弾を仕掛けて吹き飛ばす計画を立て、実際に岡崎と早川が地下駐車場の下見まで実行していたことも、やがて明らかになる。