公的な建設工事の場合、学校・病院・事務所といった一般的なプロジェクトであれば、発注者が自前で「企画」「調査」「設計」を行うことは可能だ。一方、特殊かつ複合的な大型建設プロジェクトでは、発注者が自前でその3段階を完遂することは困難であり、どうしても民間企業の力に頼らざるをえない。

このため、「施工」の段階で担当企業を入札で選ぶことになっていても、実際にはその前の段階から民間企業がプロジェクトにかかわっており、それが「談合」という問題に発展してしまう。つまり民間企業が入札前に行った業務の費用を、不公正な入札を経て受注することで精算し、帳尻を合わせるやり方が容認されてきたのである。

原型は明治時代の「官僚主導」プロジェクト

こうしたやり方が、建設業界という「仲間内」でしか通用しないことは明らかだ。なぜ日本では、こうしたやり方が横行してきたのか。その根本原因である「自前主義」の始まりは、明治時代にさかのぼる。

明治政府誕生(1868年)後、真っ先に政府が取り組んだのは、欧米列強に肩を並べる近代国家建設のためのプロジェクトを担う、人材の育成であった。政府は1871年(明治4年)、工学寮(後の工部大学校・現東京大学)を創設。全国から優秀な人材を集め、当時世界でもトップクラスの外国人教師の下で、西洋技術の習得を図った。

工学寮は工部大学校になり、1879年(明治12年)造家学科(後の建築学科)第1期生を社会に送り出した。ちなみに、東京駅舎の設計者として知られる辰野金吾も第1期卒業生だが、東京駅が竣工したのは1914年と、卒業後40年近くの歳月を要している。

その後、外国人技術者の元、多くの造家学科の卒業生が富岡製糸工場、鹿鳴館、碓氷川4連アーチ橋、法務省本館などの建設プロジェクトを通して、修業を積んでいった。彼らの多くは、法務省、逓信省、文部省、建設省の建設局に入省し、官庁による建設プロジェクトのリーダーとなって、日本各地で各官庁所管の施設(奈良少年刑務所、米沢高等工業学校本館、逓信省本館)を次々と設計し足跡を残した。

明治時代の官庁主導の建設プロジェクトは、今日のインフラ整備システムの基礎となった。とくに重要な国家プロジェクトである迎賓館や国会議事堂は、設計から建築工事に至るすべてを官庁直営で行っている。近代国家日本のインフラ整備の歴史のなかで、理念構築、都市計画、建築関連法規などの制度設計、企画提案にとどまらず、設計や工事の詳細にまで諸官庁が深く関与するという日本独自のシステムが構築され、今なお健在である。