新しい高周波絶縁材料の合成に成功した

入試に何度も失敗し、大学を出てもどこにも就職できず、ついていなかった青年時代。しかし、会社に入り、研究に打ち込むようになると、人生がどんどんよい方向に進みだした。そのとき初めて、私の人生に対する考え方が変わりました。

そして、研究を始めておよそ1年半が経った頃、「フォルステライト」という新しい高周波絶縁材料の合成に成功したのです。

フォルステライトができたとき、それを同定するための装置がなく、高度な測定装置を手づくりで用意したり、あるいは大学の研究室まで借りに行ったりして、苦労の末、やっと新しい高周波絶縁材料の合成に成功したということを確認しました。

そのちょうど1年前に、アメリカのGE社が同材料の合成に成功したという論文が出ていたのですが、「環境は恵まれていなかったのに、アメリカのGEというすばらしい会社の研究所が1年前にやったものと同じものを自分もやり遂げたのだ」とたいへん嬉しかったことを思い出します。

当時、松下電器がテレビを量産していて、そのブラウン管の中の絶縁材料に私が開発した材料を使いたいと、グループ会社の松下電子工業から引き合いを受けました。

今度は研究だけではなく、量産までを私が手がけることになったのです。

赤字を続けていた会社にとっても朗報であり、これでこの会社も生き返る、と会社の幹部もたいへん喜んでくれました。

その頃はテレビが飛ぶように売れており、ブラウン管の生産も、つくっても追いつかず、注文が山ほど入ってくるものですから、寝る間もないくらいに忙しく生産に取り組みました。

そのうちに、アメリカで、そのフォルステライトを使って、小指の先くらいの大きさの真空管が開発された、というニュースが届きました。

それまでは、ガラスでできた大きな真空管が使われていたのです。そこで、日立製作所がGE社から技術導入をして、日本でも量産することになったのですが、そのセラミックス材料をつくっているのが日本では私しかいなかったため、日立の方が私のところへ訪ねてこられて、それをつくってくれないかと言ってきました。

新しく開発されたセラミックスの真空管を使って、新しいラジオ、テレビをつくりたいというのです。シリコン材料が登場するのは、まだだいぶ後のことです。

それを聞いて私もたいへん感激して引き受けたのですが、やってもやってもうまくいきません。日立の研究所からは、やいのやいのと催促される。サンプルをつくって出してもなかなかうまくいかない。

日立からのクレームが重なってきたので、当時、上司であった技術部長が「これは稲盛くんに任せておったのではできない。ここまではよくやってくれたけれども、これ以上は君の能力では無理だ。別の研究者たちに任せることにする」と言ってきたのです。

その会社には京都大学出身の幹部が何人もいて、その人たちが碍子の研究もやっていたので研究を引き継ぐことになりました。

私はプライドをたいへん傷つけられ、短気を起こし、「つまり私はいらないということですね。では、辞めます」と、その技術部長に言い切ってしまいました。