<2017年9月26日追記>2017年9月25日、徳川慶朝さんが水戸市内の病院で亡くなりました。67歳でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。(プレジデントオンライン編集部)
徳川慶朝

1950年、徳川15代将軍慶喜公の曾孫として生まれる。現在は、旧公爵徳川慶喜家の当主。20年間、広告制作会社のカメラマンとして活躍後独立。現在はフリーランスとして徳川家の歴史的建造物やゆかりの地を撮り続けている。また、自他共に認めるコーヒー好きで、茨城県のコーヒーメーカーから自ら焙煎した豆を「徳川将軍珈琲」として販売。深煎りで美味しいと評判になり、茨城に移住するきっかけにもなった。著書に『徳川慶喜家にようこそ』『徳川慶喜家の食卓』(文春文庫)など。


「慶喜公とお顔が似てますね」といわれることがあります。でも子どものころは教科書を見ても、これが曾お祖父さんか、と思うくらいで実感はありませんでした。大正2年に亡くなったので、会ったことはないですから。今、大河ドラマの「篤姫」に慶喜公が出ているようですが、歴史にあまり興味がなくて、見てませんねぇ(笑)。

そんな僕ですが、40歳を過ぎてから先祖のために何かやっておこうと、慶喜公ゆかりの地を撮影して歩いています。慶喜公が撮った写真が家の押し入れにあるのを見つけて、本にまとめたことも。慶喜公とは、カメラ好きな所が似ていたようです。

わが家にはほかにも、慶喜公関連の遺品や古文書、家範もありました。家範は、慶喜公が書いた慶喜家運営マニュアルです。“経済的なことは相談役をおいて相談するように”とか“子孫は自分と同じ墓地に入るように”“皇室を大事に”などと書かれています。でも、僕の親や祖父は読んでなかったみたい。触った形跡がないんですから(笑)。今はすべて、松戸市にある戸定歴史館で管理してもらっています。

僕自身は、それまで住んでいた東京のマンションを処分し、今年の1月から茨城県に住んでいます。ここが慶喜公ゆかりの水戸藩だったというのはたまたま。仕事や趣味を通して仲間ができ、土地柄も気に入ったことがここに来た一番の理由です。

引っ越してすぐ、真っ赤なオープンカーを買いました。子どものころから、“オープンカーの隣に女性を乗せて海岸沿いをドライブ”というのが夢だったんです。でも普段は、女性の代わりにチャーリー・ブラウンの大きなぬいぐるみを乗せています(笑)。スヌーピーのマンガの世界観が大好きなもので。

たまにひとを乗せたとき、ドライブがてらに行くのが、大洗パークホテルのレストラン「松涛」です。ここの社長と知り合いで行き始めたのですが、何を食べてもおいしい。和食も洋食も両方食べられるのも気に入っています。「サムシング」には、生演奏を聞きに、週2~3回は歩いて通っています。食事はいつもお任せ。お酒はシングルモルトウイスキーをキープして飲んでいますが、ボトルには洒落で「将軍さま」って書いてあるんです(笑)。帰りは顔馴染みのタクシーが、寝てても家までちゃんと連れて帰ってくれるし、ここでの生活は本当に居心地がいい。

「世が世なら将軍さまになれたのに」という人もいますが、冗談じゃない。将軍の食事なんて、毒味をしてから出されるので冷たくなっていたようですし、お酒も夕食のときだけ。しかも食後にしか飲めなかったといいます。今の僕は、食事もお酒も自分の思うまま自由に楽しめて、ずっと幸せですよ。