借金をしてまで背中を押してくれた母

在日コリアン1世の両親のもと、7人兄弟の末っ子として生まれた。小学生の頃には、貧困、在日であること、失明によって白濁した右目が原因で、「片目のチョーセン人」とバカにされ嘲笑された。悔しさのあまり、ケンカを繰り返し、中学生の時にもっと強くなろうと空手を習う。これがゆくゆくアメリカで自分の身を助けることになるとは知らずに。

強いものに人一番あこがれた。テレビで東京五輪を見た時、金メダルを獲得する強いアメリカにくぎ付けになった。

アメリカ行きの理由は、ただ単に強いアメリカに引かれたことだけではなかった。

「ほんま、ごんたくれ(誰の手にも負えない、どうしよもないワル)で、このままだとヤクザになるしかなかった。日本には居場所がなかったんだ」

吉田は、当時の身の置き場のない自分を思い出し、こう語った。

自分の居場所を求め、強くなりたい一心だった。その延長線上にアメリカがあったのだ。唯一の理解者の母親が吉田のためにコツコツと貯めていた500ドルと借金をして工面した飛行機代を手渡し、「どうせやるんだったら、大きいことをせえや」と背中を押してくれた。この母の言葉はいつまでも耳元に残り、吉田のその後の人生を引っ張ってくれたという。

父親は反面教師、母親はメンターだったと語る
編集部撮影
父親は反面教師、母親はメンターだったと語る

不法滞在者となり、窮乏にあえぐ日々

1969年1月、19歳で京都からシアトルに単身渡米。

「アメリカンドリーム」を夢見た若者を待ち受けていたのは、寝所も食べる物もない厳しい現実だった。帰りの航空券を売って中古車を買い車中生活を送り、芝刈りや皿洗いのアルバイトで日々を凌いだ。

ビザが失効し強制送還を恐れながら、ようやく裸電球がぶらさがる安アパートへ移り、ビザ取得のためにコミュニティスクールにも入学した。が、ひもじい状況は変わらなかった。2度飢餓寸前で倒れ、入院もした。

だが、兄弟や親戚の反対を押し切って家を出たからには、日本へ戻ることは考えていなかった。「今に見てみい」――この負けん気が吉田を、逆境をものともせず、前へと突き動かす原動力になった。