最近の不登校は勉強への意識が低い事例が多い

かつての不登校では、成績に問題はなく、勉強もするという事例がそれなりに存在しました(現在もそういう不登校の子どもは少数ながら存在します)。ですが、「ネガティブな自分を受け容れられない」という不登校の場合、成績は事例によって差がありますが、勉強に対する意欲が低い事例が非常に多いと感じます。

もっと詳しく言えば、「ネガティブな自分を認められない」という特徴をもつ子どもの場合、元々の成績は良かったり、教師からも「頭が良い」と評される子どもも少なくありません。しかし、彼らは「わからない問題」に出会ったときの心理的衝撃を回避しようとするため、その心理的衝撃に耐えつつ粘って問題を解くことをしません。「わからない問題」に向き合って解いていくためには、どうしても「その問題が解けないネガティブな自分」に触れることが求められるわけですが、それが彼らにとって「苦しくて苦しくてたまらない」のです。ですから、彼らは「元々頭が良くても、成績が下がってくる」という憂き目にあってしまいますし、そういう「低い自分」のあり様を認めること自体がまた「苦しくて苦しくてたまらない」わけです。

手で顔を覆って泣く子ども
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学びの前提は「未熟であることへの不全感」

思想家・武道家の内田樹うちだたつる先生は「自分の無知や幼児性が自分の成熟を妨げているのではないかという漠然とした不安」が学びの起動になると述べています。自分の未熟さに苦しんでいる人だけが導き手(先生や師匠など)に出会うことができ、その出会いによってそれまでの価値観や世界観がリセットされ、ブレイクスルーが起こる。そうやって「学び」は起動するのです。

これは考えてみれば当たり前のことです。「自分は未熟だ」という前提を抱えられない人は、未熟じゃないわけですから学ぶ必要が無いわけです。「自分は未熟だ」という認識を持つことによって、何ができていないのか、どこを改善すればいいのか、どういう手段が必要なのかを現実的に考えていくことができます。