将軍のお世話係が側妾になるまで

これらの役のなかで特筆すべきは御中臈だろう。御台所付の中臈なら問題がないが、将軍付の中臈の場合、将軍の側妾になる可能性があったからである。ただし、将軍が気に入った中臈を側妾にしたのではない。そこには現代の感覚からは想像がつかないシステムが機能していた。

将軍付の中臈は、御年寄の合議によって決められ、世話親がつけられた。こうして将軍付となった中臈は、以後は長局内の世話親の部屋に起居して、すべてにわたって世話親の指示を受けた。

将軍がみずから好みの中臈を選ぶこともあったが例外で、基本的にはこうして推薦によって将軍付になった。このため、大奥の女中のあいだでは有力な御年寄や御客会釈との関係を築くためにも、激しい勢力争いが起きやすかったのである。

将軍の手がつかない中臈は「お清」と呼ばれ、一方、お手つきは「汚れた方」と呼ばれた。また、将軍の手がついた中臈でも、その子を身ごもるまでは独立した部屋をもらえず、大奥における地位も中臈を超えられなかった。

このようにして選ばれた側妾の数は、将軍によって異なるが、おおむね7~8人ほどだったようだ。ただし、17人の腹から55人の子供を産ませた11代将軍家斉には、40人もの側妾がいたという。

豊原周延「千代田の大奥」
豊原周延「千代田の大奥」(写真=The Metropolitan Museum of Art/CC-Zero/Wikimedia Commons

すぐ脇で監視されながらの夜の営み

ところで、歴代将軍のなかでも御台所から生まれた子は、3代家光と15代慶喜の二人にすぎない。しかも慶喜は、水戸徳川家の斉昭と正室のあいだの子で事情が異なる。将軍家を存続させるために大奥と、側妾の制度が機能していたことは疑いない。

だから、こうして多くの側妾に囲まれていた将軍を、一概に「色男」とは評せないが、さらに、その夜の営みに関しては、側妾にも将軍にも同情を禁じえない面があった。

大奥で警戒されたのは、側妾が将軍に政治関係の要望を伝えることだった。将軍が情にほだされて判断を誤ってはいけない、というわけだ。

このため、将軍の寝床に中臈が呼ばれたときは、「御添寝」といって、将軍と中臈が営んでいるすぐそばに別の中臈が寝て、さらに次の間には御年寄が寝て、翌朝、御添寝した中臈が年寄に、将軍と交わった中臈の言動を報告していたのである。

それも制度として習慣化していれば、将軍も中臈も嫌ではなかったのかもしれないが、なんとも奇妙なことが行われていたのだ。