「お客さんに喜んでもらえれば、放っておいても利益はついてくる」

健康的な食事を提供すれば繁盛店になるにちがいないと考えてイタリア料理で再出発したものの、客数は以前より減ってしまいます。

そこで発想を変え、お客さんの立場になって考えたら安いほうがいいに決まっているという結論に至り、価格を3割下げてみました。が、それでも反応はありません。5割下げると客足は増え始めましたが、繁盛するというほどではない。そこで、思い切って7割下げたところ、あっという間に1日700人が押し寄せる繁盛店となりました。

繁盛すると客が客を呼ぶため広告費も要りません。これが正垣さんのその後のビジネスの原点だったのではないかと思います。

もちろん、それからは順風満帆だったというほど簡単ではありません。繁盛しても7割引きでは利益は上がらないし、忙しすぎて休む間もない。そこで値段を上げると、客足は止まってしまう。商店街にやってくるアサリの行商からアサリを仕入れ、1階の八百屋から野菜を仕入れるようにしたら、行商や八百屋の人が店先で客引きをしてくれるようになり繁盛するといった経験もしています。そうした経験が、正垣さんの「お客さんに喜んでもらえれば、放っておいても利益はついてくる」というビジネスの理念を作っていきました。

躍進したのはバブル経済崩壊後

1975年に同じ市川市に2号店を開店、77年にはセントラルキッチンを併設した3号店の市川北口店を開店し多店舗化に乗り出しました。が、そこからすぐに急成長したわけではありません。

50号店を出店したのが創業から25年後の1992年、しかしそれからわずか2年後の94年には100号店、98年には200号店を達成しています。このサイゼリヤの急成長はバブル経済崩壊後のことで、日本中が好景気に浮かれるなかを、低価格路線を堅持し一定の支持を受け続けていた80年代は雌伏の時代、あるいは、その後の飛躍のための助走期間だったように思います。

サイゼリヤのコンセプトは「ワインに合う、毎日食べても飽きない、安価なイタリア料理」です。多店舗展開に乗り出したころから、そこにぶれはありません。それがお客さんに伝わればお客さんは離れないと、正垣さんは確信していました。

80年代を雌伏の時代として過ごさなければならなかったのは、戦後史上空前の好景気が原因でした。その時代には低価格のイタリアンが爆発的に支持されることはありませんでした。しかし、バブル崩壊が追い風となって、サイゼリヤは急成長の時代を迎えます。

バブル崩壊後にチェーンレストラン業界は値下げ競争を繰り広げていきました。その構造は30年以上を経たいまも基本的には変わっていません。現在の外食チェーンは、競争に勝って競合店の売り上げを奪い、自社の売り上げにしなければ維持できない状況になっています。そのため、「お客さんへの還元」ではなく、「価格競争」になるのです。同じ低価格でも、サイゼリヤのそれとは意味が違います。