※本稿は、川上徹也『江戸のカリスマ商人 儲けのカラクリ』(三笠書房・知的生きかた文庫)の一部を再編集したものです。
コンテンツマーケティングで才能を発揮した蔦屋重三郎
版元業を始め、薄く安価な遊郭街のガイドブック「吉原細見」を制作し安定した売り上げを得る一方で、蔦重は吉原のイメージを高める出版物を発行していきます。
初めて出版した『一目千本 華すまひ』も、吉原の遊女を生け花に見立てて紹介する画集で、妓楼や遊女から上得意客にむけての贈答品として使われました。
『籬の花』の翌年に出版された『青楼美人合姿鏡』は、遊女たちの超豪華なカラー画集です。北尾重政(「べらぼう」で演じるのは橋本敦)と勝川春章(同・前野朋哉)という当時最も人気があった2人の絵師による競作。紙も凝りに凝って彫り師・摺り師も超一流を使うという贅を尽くした3巻セットで大評判となりました。
これらの本は「悪所」と呼ばれていた吉原のイメージを高めるのに大きく貢献し、蔦屋重三郎の名前を吉原内外に広めたのです。
蔦重は、著名な作家や絵師をたびたび吉原に招きました。当時はまだ「原稿料」や「印税」という概念はなく、彼らの飲食代や遊興費などを支払い、接待することがフィーの代わりだったのです。
こうして、多くの作家や絵師たちと深いつながりを持ち信頼を得た蔦重は、ますます飛躍していきます。
商業の中心・日本橋に進出、貸本屋から一流の出版社&書店に
天明3(1783)年、「吉原細見」を独占するようになった蔦重は、吉原の店を手代に任せ、日本橋通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)にあった地本問屋・丸屋小兵衛の店「豊仙堂」の店舗と株を買い取り、「耕書堂」の新たな拠点とします。
その周辺は大手の「書物問屋」と「地本問屋」が軒を並べていました。「問屋」とは出版社兼書店という存在で、「書物問屋」は学者や研究者が読む学術本、「地本問屋」は江戸発祥の大衆娯楽本を扱うことで区別されました。
もちろん蔦重は大衆向けの書物を制作販売する「地本問屋」です。そうであっても日本橋に店を出すことは一流の「問屋」の証しだったのです。
当時の出版業界は、株制度という参入障壁があるので基本的には世襲制です。吉原門前の小さな貸本屋からわずか10年で「問屋」になるのは異例の大出世です。
しかしこれはまだ序の口でした。当時34歳だった蔦重の快進撃はここから始まります。
大人向けの娯楽読み物「黄表紙」本でベストセラーを連発
この前後、蔦重がベストセラーを連発するのは「黄表紙」です。草双紙と呼ばれる絵入り娯楽本の一分野で、もともとは子供向けの本が主流でしたが、やがて風刺や洒落を利かせた大人向けのものも登場。表紙の色によってジャンル分けがされ、昔話など子ども向けの赤表紙、浄瑠璃や歌舞伎をテーマとした黒・青表紙などがありました。
「黄表紙」というジャンルも、元々は鱗形屋孫兵衛(「べらぼう」で演じるのは片岡愛之助)が企画開発したものです。安永4(1775)年に刊行された恋川春町作・画の『金々先生栄花夢』が記録的な大ベストセラーになりました。「一炊の夢」の故事で知られる謡曲『邯鄲』を下敷きにした作品で、以下のようなあらすじです。
金村屋金兵衛という田舎出の貧乏な青年が一旗挙げようと江戸へ向かい、ふとした縁で大商人の養子として大金持ちになり栄華を極めるが、やがて吉原通いにはまり勘当され無一文になる。しかしそれは江戸へ来た時の茶屋でうたた寝した時に見た夢だったというオチで、青年は人の一生ははかないものだと悟り故郷に戻る。
同作の表紙が黄色かったことから「黄表紙」と呼ばれるようになりました。その後、鱗形屋はブームの火付け役となった恋川春町を始め、朋誠堂喜三二(同・尾美としのり)などの「黄表紙」を多数出版して栄華を極めます。しかし前述した不祥事をきっかけに勢いをなくし、「黄表紙」のジャンルでも蔦重にその地位を取って代わられるのです。
安永9(1780)年、蔦重は黄表紙の出版を開始します。以前から関係を深めていた朋誠堂喜三二から始まり、やがて恋川春町も耕書堂の専属的な作家となっていきます。
吉原などを舞台にした恋愛小説の「洒落本」もヒット
「黄表紙」と並んで人気があったのが「洒落本」でした。黄表紙は挿絵が多く今の漫画に近い書物なのに対して、「洒落本」は文章主体の恋愛小説です。といっても舞台は吉原などの遊郭で、遊女と客の「粋」な会話を楽しむものでした。こちらは文章主体なので、教養がある武士階級のための書物だったといいます。
このジャンルで頭角を現したのが山東京伝です。画才も文才もあった山東京伝は早くからその才能が注目され、他の大手版元(鶴屋喜右衛門)から何冊も黄表紙を出版していました。蔦重もその才能を見込んで黄表紙の執筆を依頼。なかでも天明5(1785)年に出版した『江戸生艶気樺焼』は大ヒットしました。
さらに蔦重は京伝に「洒落本」の執筆を依頼。天明7(1787)年に出版した『通言総籬』は大きな評判を呼び、洒落本のジャンルの第一人者となります。その後も、蔦重と京伝のコンビはヒットを連発。京伝は江戸一のベストセラー作家となっていきます。
風刺や下ネタを読み込んだ「狂歌」ブームに便乗して大もうけ
耕書堂が日本橋に進出した頃から江戸では空前の狂歌ブームが起こっていました。狂歌とは、五・七・五・七・七の和歌の形式の中で、社会風刺や皮肉、下ネタなどを盛り込んだもののことです。
狂歌は「連」と呼ばれるコミュニティで歌会が催され、当時の江戸の文芸界を牽引していた狂歌師・戯作者たちの多くは「連」を主宰していました。狂歌は本来その場で読み捨てられることが基本でしたが、目ざとい蔦重がこのブームを見逃すはずはありません。
「蔦唐丸」の狂歌名で「連」に参加することで、大田南畝をはじめとする人気狂歌師の出版権を確保したのです。また自らも歌会を主宰。そこで詠まれた狂歌を次々と独占出版することに成功します。
その後、徐々に狂歌人気に陰りが見えてくると、狂歌よりも挿絵である浮世絵中心の「狂歌絵本」にシフトします。
天明6(1786)年、当時を代表する狂歌師50人の肖像画を北尾政演(山東京伝の画家名)が描いた『吾妻曲狂歌文庫』はベストセラーになりました。すると蔦重はさらに思い切った狂歌絵本をプロデュースします。
稀代の浮世絵師・喜多川歌麿のプロフィール
無名ながらその才能を蔦重が高く評価していた喜多川歌麿(「べらぼう」で演じるのは染谷将太)に狂歌絵本の浮世絵を描かせたのです。ここから歌麿三部作と呼ばれる『画本虫撰』『百千鳥狂歌合』『潮干のつと』を発刊。喜多川歌麿の出世作になりました。
喜多川歌麿(1753?~l806年)
江戸を代表する浮世絵師のひとり。生年、出生地などは諸説あり不明。北川豊章の画号で浮世絵師としてデビューするが、30代半ばまで鳴かず飛ばずだった。蔦屋重三郎にその才能を見出され、狂歌絵本『画本虫撰』『百千鳥狂歌合』で花鳥や虫類を繊細な筆致で描き注目を集める。
また「枕絵」と呼ばれる情交を描いた春画も数多く描いた。そして40代を迎えた頃、大首絵(胸から上の構図)の手法で女性の表情の微細な変化を描いた美人画により大ブレイクし、時代の寵児に。その秀作の多くは耕書堂から出版されていることから、蔦重の企画・助言があったものと思われる。
寛政9(1797)年の蔦重の死後は画風が変化、作品の質が低下したと言われる。