※本稿は、風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)の一部を再編集したものです。
東京ドーム1.3個分の島内で都市機能は完成していた
軍艦島はほぼ完成した都市機能を持っていた。飲食店や商店も充実し、島内には三菱鉱業直営の購買部と常設の個人商店があった。島の北西部の57号棟にある商店街は「端島銀座」と呼ばれ、酒、雑貨、衣類、飲食、料理屋、タバコ雑貨、八百屋、青果や魚屋が軒を連ねていた。地代は三菱に対して坪5円。日給社宅16号棟の1階にも店舗が入居し、質屋でありながら学生服も販売する「亀屋」や、文具や雑貨を販売していた「中島書店」、「上田商店」と、三菱の管理部の出張所である外勤詰所があった。
「飯田電機」や日用品も販売する「鐘ケ江酒店」、「大石洋装店」もあった。30号棟には賃金支払窓口の他に、「永田こまもの店」「山口漬物店」「今村下駄店」「ニコニコ食堂」「落水時計店」などの店舗が入居していた。
米は65号棟の地下に専用倉庫があり、販売も行われていた。65号棟東側の地下には製氷室があり、夏季限定でアイスキャンディーが売られていたという。
端島購買会は59号棟と60号棟の地下にあり、生活雑貨などが島内最大のマーケットで、市価よりも安く販売されていた。購買では券を購入し、券を商品と交換するシステムだった。父親からお使いを頼まれた子どもが酒を買う場合は、一升瓶を持参してその中に量った酒を入れてもらっていた。酒は2合か3合ほどが昭和初期で19銭だった。
購買会の他に買い物をする場として生協の専用販売所もあり、そこには牛乳屋なども設置されていた。
青空市で魚や野菜が売られ賑わったが、海が荒れると…
島の目抜き通りでは連日青空市が開かれ、対岸の高浜村にある野々串港から来た行商が軒を連ねていた。魚や野菜が売られ、魚屋は10時半ごろに上陸して11時〜16時まで店を開き、八百屋は9時〜11時頃まで売って帰った。売れ残りは購買会に委託売りにしていたようだ。生花もよく売れていたという。緑がない端島にとって、生花は島民の癒やしだったのかもしれない。
鉱員の給料日になると、普段は見かけない行商も島を訪れていた。というのも、島民は平均よりも高い給料をもらっていたが使い道がほとんどなかったのだ。そのため、「軍艦島では高いものから売れる」と言われていた。島民は行商にとって「いいお客」だった。女性客は安い化粧品ではなく、高級品を購入した。また、靴も衣類もオーダーメイドしたものを購入していたのだ。
しかし、毎日2回長崎からの野母商船「平戸口丸」や「夕顔丸」によって運ばれてきた新鮮な肉や野菜も、時化が続くと手に入れられなくなってしまう。そんな時は缶詰やラーメンを食べる生活を余儀なくされていたという。
端島では「高いものから売れる」、島民の購買意欲は旺盛だった
島内にも購買店や労組管轄の生協などがあり、日用品から食料品までを取り扱い、安い値段で購入ができた。しかし、生鮮野菜に関しては島内でほとんど生産されていなかったため、アキナイ(島外から搬入しての行商)から購入するしか手段がほとんどなかったという。これも、「軍艦島は高いものから売れる」と言われていた一因かもしれない。
端島の生協売店には実演販売が来ることもあった
なお、アキナイに行った行商が、島内でパンやお菓子などを高浜で待つ家族に購入していく姿も見られた。軍艦島はいわば都会であり農村の高浜にはないものが軍艦島では手に入れることができたのだ。青空市場は島民だけでなく、近隣地域に暮らす住人にも、多大な影響を与えていたのだ。
出前も仕出しもオッケー、意外に充実した食生活事情
買い物といえば、軍艦島ではテレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器だけでなく写真機も各家庭に揃っていた。そのため、子どもの運動会などではこぞって写真機を構える姿が見受けられていた。他にもラジオや、そこまで広くない住宅にもステレオやソファを買い込むなど、お金には余裕がある生活を送っていたことがうかがえる。
軍艦島にはいくつかの飲食店が存在していた。日給社宅18号棟の1階には「厚生食堂」という食堂があった。戦前に会社の福利厚生施設として運営していたため、この名前が付けられた。和洋中さまざまなメニューを提供し、島民に愛された食堂だった。チャンポンやうどんの他、奥にある窯ではパンが焼かれていた。特に人気だったチャンポンは現代に受け継がれ、当時の味を再現してインターネットで販売がされている。
厚生食堂では他にも豆腐を作ったり、年末には餅つきをしたりしていた。餅の配達をするアルバイトもあったといわれている。また、島内電話を使って出前注文ができ、運動会の弁当を配達するなど島民の生活に密着していたお店だった。厚生食堂の隣の17号棟には、朝鮮人が切り盛りする「宝来亭」という中華料理屋があった。
30号棟の1階は商店街になり、そのひとつが「ニコニコ食堂」という食堂だった。1階の半分の面積を店舗が占めていて、1階の残り部分と2階に従業員が住み、3階は住居兼商店街の会合などにも使われていた。会社の寮である菊池寮で宿泊客や会社の酒宴があった際には、そこへ会席膳を運んでいた。夜は酒場になり、客は女給さんを相手に一杯飲んだあと、島内に点在していた遊郭に流れてゆく人もいたそうだ。島で一番賑やかな場所だったという。
開店は人口流出防止? お酒やダンスも楽しめるスナック
ニコニコ食堂前の石段を下りると木造建築があり、「海野酒店」「鐘ケ江酒店」や豆腐屋があった。51号棟の1階には個人商店が人居し、「海野酒店」は購入した酒を店内に設けられた立ち飲みスペースで楽しむ「角打ち」で賑わっていた。「海野酒店」の他には「鐘ケ江商店」でも仕事を終えた鉱員が角打ちを楽しみ、店内は賑わっていた。
島内唯一のスナック「白水苑」は、もともと警察署の派出所があった場所。2階にあった旅館「清風荘」の喫茶部門として1964(昭和39)年頃に改装された。そのため入口の看板には「スナック」ではなく「清風荘喫茶部」と書かれていたという。
店内にはカウンターが配置され、お酒だけでなくダンスも楽しめる大人たちの社交場だった。このスナックは鉱員のために三菱が経営を行っていた。というのも、1964(昭和39)年に坑道の深部で火災が発生し、消火のために建物を水没させなくてはならなくなったことが発端だった。約1年間の採炭休止となったが、将来を不安に思った労働者が島外に出ていってしまうことを懸念して、娯楽施設を造り人口流出を防ごうとしていたのだ。
昭和初期の軍艦島には、一見普通の建物に遊郭があった
島内にはナイトスポットも小規模ながら点在していた。大衆的な酒場は主に2軒。18号棟地階の小料理屋「厚生食堂」と、25号棟の1階にあったスナック「白水苑」だ。
他にも17号棟1階のビリヤード場、16号棟1階の碁会所、48号棟地階の麻雀店といった娯楽施設が存在していた。1971(昭和46)年には、パチンコ店が開業してしまう。労働組合が福利施設として会社と交渉した結果獲得したもので、当時は新たな名所として期待が集まったようだ。しかし、閉山までの3年間という短命に終わってしまった。
島には大正時代にはすでに遊郭があったとされ、昭和には日本人専用の「本田」「森本」と、朝鮮人専用の「吉田」の3軒の遊郭が、島の南部にあった南部商店街に店を構えていた。1933(昭和8)年発行の『長崎新聞』には、「本田」に関するこんな記事がある。「炭粉にまみれた坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれるのも炭坑端島のもつ柔らかな一断面である」。遊郭が、危険と隣り合わせの坑夫たちにとって、どんな存在だったのかがうかがえる一文だ。
やがて、吉田は文具店兼洋装店へと姿を変え、残り2軒も1956(昭和31)年に島を襲った巨大な台風9号により壊滅。翌1957(昭和32)年には売春防止法が施行され、軍艦島でも遊郭は表向きには姿を消すこととなった。
レクリエーションの充実は、炭鉱員募集のためだった?
端島では、舞踊、弓道、コーラスといったクラブ・サークル活動も盛んだった。職員と家族のレクリエーションも頻繁に催され、大いに賑わったという。春には職場対抗のソフトボールといったスポーツ大会、夏には納涼大会、秋には文化祭と季節ごとにイベントが目白押し。上記は一例でしかないが、島外におもむくレクリエーションなども含め、長い歴史の中で様々な催し物があった。
端島でここまで娯楽が充実していたのは、もちろん厳しい条件で働く炭鉱員のための手厚い福利厚生という意味合いもあるが、端島の炭鉱従事者を増やすため、という側面も確かにあっただろう。規模拡大を続けた時期の炭鉱では、人手はいくらあっても足りないほどで、端島で働くことの魅力を対外的にもアピールすることで人を集める必要があったのだ。