※本稿は、池田由芽『メンタル“ヤバめ”をやめられる本「今日も自分を大切にできた」と思える心理学』(大和出版)の一部を再編集したものです。
承認欲求は無理して手放さなくていい
「認めてほしい!」
「わかってほしい!」
このような承認欲求が強い人にあなたはどんな印象を抱きますか?
かまってちゃん?
自己顕示欲が強そう。
少し厄介な人?
前の記事でご紹介した第0感情の「○○してほしかった」という承認の願いは、人格の土台となる大切な願いです。
赤ちゃんはお母さんに愛して、世話をして、守ってもらわなくては死んでしまいます。だからこそ、生存本能として認めて、愛して、満たしてもらうという欲求は私たちから切り離せないのです。
それに「認めてほしい」という気持ちに対して、「なくなれ!」「手放さなきゃ!」と思ったところで、承認欲求がなくなったためしはないですよね。
だからこそ、私は声を大にして伝えています。
「承認欲求は手放す必要はない」と。
承認欲求は、しばしば邪魔者にされがちな欲求です。
だから、多くの人は自分の中にある承認欲求をひた隠そうとするし、なんなら手放そうとしていきます。
まずは自分自身の承認欲求に気づいて
パートナーにがんばっていることをもっと認めてもらいたい。会社に努力を正当に評価してもらいたい。
でも、そんなことを言ったら迷惑かな。めんどくさい人認定されちゃうかな。
そんな思いから、普段は涼しい顔をして、承認欲求を持っていることを隠している人が多いのではないでしょうか?
もしくは、パートナーや友人に過剰に求めすぎてしまい、そのせいで人間関係がうまくいかなくなってしまっている人もいるかもしれません。
そう、承認欲求が強すぎると相手に依存的になってしまうことがあるのです。
ただ、承認欲求というのは私たちが当たり前に持っている欲求の一つ。
ただ、「承認欲求は強いと嫌われる!」という思いから、人にひた隠すだけでなく、承認欲求を強く持っていることに、自分自身でさえ気づいていないことがあります。
承認欲求は手放す必要がないと書きましたが、それ以前にまず、自分自身の承認欲求に気づいていくこと必要があるわけですね。
行動にはすべて動機がある
でも、自分でも気づきにくい承認欲求。どうすれば気づくことができるのか。
それは、行動の動機に目を向けていく、ということです。
行動にはすべて動機があります。
悩みの元は思考、その元は価値観、その元は第0感情といったように、行動にも元を辿れば、動機が見えてくるわけですね。
承認欲求に気づくためには「なんのためにその行動をしているの?」というアドラー心理学でいうところの目的論の視点を日常に取り入れていきましょう。
たとえば、職場で自分の企画を取り上げてほしくて、自分を追い詰めすぎてしまう。
そんな苦しい時こそ、「なんのためにその行動をしているの?」と自問してみてください。
たとえば、その問いの答えはこんな感じかもしれません。
「上司に親を重ねていて、認めてもらいたいんだ」
そうか。私はただがんばりたいわけではなく、上司に認めてもらいたかったんだ、という承認欲求が見えてきますね。
執着心を手放したい理由
また、私のクライアントで、執着心を手放したいという方がいました。
執着心を手放せば、目的のものが手に入るのだと信じていました。
なんのために執着心を手放したいのか。
その方の目的のもの、それは元カレとの復縁でした。
つまり、すごく元カレに執着し、彼から認められたいし、ヨリを戻したかったのです。
「別に執着したっていいですし、認められたいし、愛されたいって素直に思えばいいじゃないですか。今、持っている感情を殺そうとするほうが苦しくないですか?」
「確かに! 手放さなきゃ認められないって信じていました!」
その方は驚き、素直にもう一度彼にアタックしたところ、彼もその方を忘れられずにいた、というかわいらしいハッピーエンドの逸話もあります。
満たされないからほしくなる
ただ、先にもお伝えしたように、承認欲求が強すぎることで、人間関係のトラブルになることはよくあります。
これは一体、何が起きているのかというと、承認欲求が満たされていないからこそ、お腹がすいて承認欲求が強くなりすぎている、ということなんです。
私はこれを「愛の飢餓」と呼んでいます。
愛の飢餓とは、承認の腹ペコ状態ということですね。
自分の中に承認がない。
自分で自分を認められない。
だから誰か、私を認めてくれ! 愛してくれ!
そして、外側に求めすぎてしまうのです。ところが愛の飢餓になってしまっていると、とても悲しい現実が訪れていきます。
実際に「すごいね」「よくがんばっているね」「好きだよ」と承認の言葉を言われても「なんかうさんくさい!」「本当はそんなこと思っていないくせに!」「どうせお世辞でしょ?」とほしかった言葉をうまく受け取れないのです。
なんで、こんなことが起きてしまうのかというと、「自己承認」がないからです。
人は自分で見知っているものしか受け取れません。
「なんかちがう!」とならないために
たとえば、あなたがコップというものを知らなかったとしましょう。
そこに友達が来て「コップを取って」と言われたとしても、どれがコップな
のかわからないから、「これ? これ?」と手当たり次第にアイテムを確認するかもしれないですよね。
つまり、自分で自分を認める感覚が育っていないと、人から承認をもらっても、これが承認なのかわからず「なんかちがう!」となってしまうのですね。
これを受け取り下手と言います。
つまり、承認欲求の正しい扱い方は、自分の中にある承認欲求を否定せずに、自分で自分を認めてあげる必要がある、ということ。
自分の中にある承認欲求を最初から否定してしまっては、自分で自分を認めてあげるという次のステップにいけませんよね。
だからこそ、「承認欲求は無理して手放す必要はない」のです。
承認欲求はあっていい。
なんだったらあって当然。
「あるよね〜」と認めて、「私、よくやっているよ!」「今日もかわいい」「がんばり屋さん」とパートナーや親に言ってほしかった言葉を自分で自分にプレゼントしてあげてほしいのです。
自分の中の愛の器がたっぷりと承認で満たされれば、愛の飢餓は終わります。
するとどうなるか想像できますか?
そもそも自分の中で承認欲求が自給自足できているので、外側に過剰に求めなくなるのです。
承認欲求が自分の中にあることを否定したり、無理に手放そうとするともっとお腹がすく。
でも、承認欲求があることを認めて、満たせば「認めてくれ〜!」と外側に求める必要がなくなります。
手放しって、手放そうとするほどできなくて、満たすと勝手に手放されるものなんです。