※本稿は、牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。
朝霞基地の周辺にいた「パンパン」にかわいがられた男性の話
朝霞の米軍基地のそばで育った田中利夫さん(取材当時80歳)は、一見華やかに見えるオンリー(米兵に囲われる愛人)も含め、「パンパン」は蔑視の対象だったと感じてきた。家が女性たちの利用する貸席(料金をとって座敷を貸す商売)を営んでいた田中さん自身も、友人の親から「淫売屋」と言われたことがある。進学や就職がままならない娘が「オンリー」となり、家族の生活を支えていた家もあったという。
「そういう家は暮らしぶりが急によくなるので、すぐわかります。近所の人たちは『あの家は娘にパンパンをやらせている』と陰口をたたいていました」。なかには米兵と結婚し、アメリカに渡った人もいたが、朝霞から出た後、消息がわからない女性も多くいる。
田中さんは市民らでつくる歴史研究会に勧められ、2014年頃から子ども時代の記憶を紙芝居にして、地元の人々に伝えるようになった。描いた絵は1000枚に及び、そこには赤や水玉模様の派手なワンピース姿の娼婦が頻繁に登場し、黒人兵のオンリーとなって豊かな生活をしていたベリーという女性などのエピソードを詳しく紹介している。「朝霞が娼婦によって潤っていたのは事実ですし、僕にとってはみんな優しくいいお姉さんでした。また会いたいです。だからお姉さんたちの名誉回復、というか、どんな人たちだったかをきちんと伝えたいと思っています」
しかし、田中さんの活動を歓迎しない人もいるという。地元の人間らしい男性から電話がかかってきて、「なんでそんなことをするのか。だまっておけ」とすごまれたことがある。「負の歴史」をあえて伝える必要はない、ということなのだろう。
朝霞の「負の歴史」とされ、元娼婦たちも口をつぐむ
田中さんは目を伏せたまま、静かに語った。「地元はいまもこんな状況で、大半の人が知っていても黙っています。公に語っているのは、私ぐらいでしょうね。元娼婦の女性たちはなおさら話さないでしょう」
数年前、田中さんが紙芝居の絵の展示をした際、それを聞きつけたのか、貸席を使っていた元娼婦の女性から電話がかかってきた。面倒見のよかった田中さんの母を慕っていたといい、「線香を上げたい」と家を訪ねてきたという。しかし女性はその後の人生については詳しくは語らず、「住所や連絡先は聞かないで。家族もいるので、探さないでほしい」と言って立ち去った。田中さんは、朝霞の近隣にはこうした女性がまだ住んでいると考えている。もちろん、自身の過去を語らない女性たちを責めることは決してできない。彼女たちは「語らない」のではなく、さまざまな事情から「語ることができない」のだろう。同様に、「だまっておけ」と言う人々にも、そう言わざるをえない事情があるのかもしれない。取材を通じて、私はそう考えるようになった。
2020年代になってから元娼婦の女性と再会して聞いた体験談
田中さんに最初にインタビュー取材したのは2022年1月だったが、2023年11月、ふたたび話を聞くと、意外な事があったという。
田中さんは2022年春以降、通っていた温泉施設で、元娼婦ではないかと思われる高齢の女性を見かけるようになった。
小柄で細身、シャンと伸びた背筋。色のついためがねをかけ、ヒョウ柄のレギンスがよく似合っていた。足元は赤い鼻緒のゲタで、爪は赤いペディキュアが施されていた。周囲の高齢女性とは明らかに雰囲気が異なる「かっこいい」風貌に加え、田中さんが元娼婦ではないかと思った理由は、女性の仕草にあった。女性は同年代の女性数人と談笑していたが、その時、手を大きく広げたり、指を鳴らしたり、口笛を吹いたりといったリアクションをしていた。田中さんは少年の頃、米兵を相手にし、そのような仕草をする女性をよく見ていた。
「トシ坊だろ?」
田中さんが、温泉施設でその女性から声をかけられたのは、その年の秋頃だった。
田中さんを利夫という名前にちなんで「トシ坊」と呼ぶのは、貸席屋に出入りしていた女性たちくらいだった。田中さんはその女性のことは記憶になかったが、女性は貸席屋を利用したことがあると明かし、親切にしてくれた田中さんの母親のことを懐かしんでいたという。子どもの頃しか知らないはずなのに、どうして田中さんとわかったのか。そう聞くと、女性は「自分の亡くなった兄と鼻の形が似ていて、印象に残っていたから」と答えた。
貧しい家に生まれ、蔑まれる境遇から抜け出そうとした
その後、田中さんは女性と温泉施設で会った際、計3回にわたり女性の生い立ちや朝霞での思い出を聞いた。田中さんが聞かせてほしいと頼んだわけではなく、女性自らが語り始めたという。田中さんは女性から聞き取った内容をノートに書き残しており、それを見ながら自身の体験なども交え、取材に応じてくれた。
2022年時点で、女性は86歳だと言った。1934年か35年生まれとみられ、朝霞では「アカネ」(仮名)という名で商売をしていたという。
アカネさんは北関東の山間部で生まれた。母はアカネさんが幼い頃に亡くなっており、父、兄2人と暮らしていた。生活は貧しく、アカネさんは兄のお下がりの服ばかり着ていたため、「男」と呼ばれた。他の女の子のように、髪をリボンで飾ったり、スカートをはいたりすることはかなわなかった。
学校では貧しいがためにつらい思いをした。アカネさんは「あたい、結構かわいかった」と語るが、小学校の学芸会ではお金持ちの子にいい役が回された。友人が先生にアカネさんを主要な役にするよう推薦しても、聞き入れられなかった。
中学を出て東京の工場で働くが、行き場をなくして上野へ
このままこの土地に残っても、地元で名士といわれる家のお手伝いさんか、子守になるくらいしか道がない。そうすれば、またひどい扱いを受け、みじめな思いをするかもしれない。それは嫌だと考え、アカネさんは中学を出てすぐに上京し、東京の工場で働き始めた。しかし、事情があって工場をやめざるを得なくなり、上野へ行った。
行き場を失ったアカネさんは、先述したべリーさんと同様に、上野で娼婦と知り合う。その娼婦から「朝霞に行ってみな」と言われ、朝霞の地を踏んだ。工場には1年もいなかったので、16歳ぐらいの頃だ。
「それからは住むところもない、乞食パン助だった。トシ坊が見てたとおりだよ」
アカネさんも例にもれず、「白百合会」というパンパンのグループに入った。田中さんによれば、白百合会には厳しいルールがあったが、アカネさんのように若い女性がやって来ても生き延びられるよう、食べ物を買うためのお金をわたしたり、雨風を避けられる野宿の場所を教えたりしていたという。そのおかげでアカネさんもパンパンとして食いつなぐことができた。
「朝霞に行ってみな」と言われ、16歳で「パンパン」になる
アカネさんは、自分は「オンリー」にはならない、と決めていた。オンリーは相手がいる間は比較的安定した収入があり、家や物資を与えられるが、契約を交わしているわけではないので、いつ相手が米国に帰るなどしていなくなってしまうかわからないし、心変わりして別の女性と関係を持つ可能性もある。そうすればたちまち経済的に困窮するので、自分はオンリーはいやだ、不特定多数を相手にした方がいい、と考えたらしい。
このためアカネさんは、米軍基地に入ったことはない。田中さんに「入りたくないよ」と言い、こう続けたという。
「仕方がないから(米兵を)お客にして、おぞましいことをされているんだ。夜空の星を見ながら歯を食いしばって、アメ公が果てるのを待ってるんだよ。そんなことをするアメ公がいっぱいいるようなところへ誰が行けるか。ふざけんじゃないよ」
また、日本人を相手にしたパンパンもいたが、アカネさんは日本人の客は一切とらなかった。日本人の場合、同胞割引といって、米兵より2割ほど安くする習慣があった。「戦地から生きて帰って来てご苦労様でした」という意味が込められていたらしい。しかし、アカネさんは2人の兄を戦争で亡くしたといい、「兄のことを考えたら、戦争から帰って来たからってなんで2割引で体売らなきやいけないんだ」と田中さんに涙を流して語った。
娼婦8人のヒモになり、もうけを搾取していた伝説の男も
当時、朝霞には体を張って稼ぐパンパンに近づき、「ヒモ」になってもうけをかすめ取る日本人男性もいた。客引きやヤクザ者が、甘言を弄して女性を操り、客を取らせるなどして利益を搾取していたのだ。
アカネさんも、ある男性から「おれの女になれ」と声をかけられた。その男性は、田中さんも知っている人物で、有名俳優に似ていたことから界隈ではその愛称で呼ばれていた。男性は少年の頃から不良行為が絶えず、事件を起こしたことから東京・練馬にある東京少年鑑別所(通称・「ネリカン」)に入っていた。当時は鑑別所から出た少年たちを「ネリカン上がり」と呼び、本人たちは勲章のようにとらえていた。男性もネリカン上がりの経歴をひっさげて、朝霞の町を闊歩していたらしい。
その男性は常に7、8人の女性と関係を持ち、ヒモとなって金を受け取り遊び歩いていた。女性からもらった金で車を買い、乗り回していたという。しかし、アカネさんは、男性からの誘いを断った。「男のくせに、女から搾り取って遊んでるやつなんて、顔を見ただけでむしずが走る」ときっぱり言い放ったという。
そして田中さんに、「ヒモはノーサンキュー。私はそんな弱い女じゃない。ヒモにいいようにされる女は1人で立ってられないんだ」と語った。
男性はその後もヒモを続けていたが、40歳頃に心筋梗塞で急死した。
身を売る女性たちにつけこむヒモの男、宗教の勧誘
女性たちにつけこむのは、ヒモ男だけではなかった。ある宗教も信者を増やそうと、パンパンやキャバレーなどで働く女性たちを狙って熱心に勧誘した。アカネさんも誘われたというが、実際に入信したかどうかは定かではない。
アカネさんはそのほか、パンパンをやっていたときのメーク方法、当時内ももに緋牡丹の柄の入れ墨を入れ、今も残っているが年を経て「くさったキャベツ」のようになっていることなどを笑いながら語った。
田中さんから聞くアカネさんの言動から判断する限り、独立心が強く、誰かに、とくに男性に依存することをよしとしない、さっぱりした性格のように思える。憧れる人も多かった「オンリー」が嫌だという主張からは、米兵との関係をあくまで金銭を稼ぐ手段としてとらえ、一定の距離を置き、自分のコントロールできる範囲で商売をしたい、という強い意志が感じられる。
人生をコントロールしようとし、2022年でも健在だった
アカネさんは、いつまで娼婦をしていたのか。はっきりは言わなかったが、「当時のパンパンの平均は22歳ぐらいで、28歳になると仲間からも面と向かって『ババアパン助』と呼ばれてたね。私は相当のババアまでやってたということになる」と話していたという。少なくとも、30歳ぐらいまでは続けていたのかもしれない。
ただ、それ以降、アカネさんが何をしていたのか、家族はいるのか、今何をしているのか、などの話は一切出なかった。
田中さんと3回思い出話をした後、2022年10月頃からアカネさんは温泉施設に姿を現さなくなった。アカネさんと以前そこで談笑していた女性たちに聞いてみても、顔を合わせたら話す程度で、連絡先や住所を知っている人はいなかったという。「体調を崩して亡くなった」と言う人もいたが、それも正しいかどうかわからない。
田中さんは「どうもあのあたりに住んでいるらしい」という情報を基に、施設の近隣の自治体まで探しにいったが、手がかりはつかめなかった。
「過去を知られたから、これ以上詮索されるのが嫌で、顔を出さなくなったのかもしれない」
田中さんは今、アカネさんの心境をそう推測している。
アカネさんは今も元気であれば、90歳手前。女性の平均寿命を考えれば、先述した、連絡先を言わずに去った女性やアカネさんのように、娼婦の過去を持ちながら、周囲に明かすことなくひっそり暮らす人は他にもいるのかもしれない。
【参考記事】毎日新聞 「パンパン」から考える占領下の性暴力と差別 戦後75年、今も変わらぬ社会