清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など、平安時代は女性作家の才能が花開いたというイメージがある。歴史学者の服藤早苗さんは「清少納言が生きた一夫多妻制の時代は、男優位、家柄主義、身分社会になっていた。宮仕えをしていた清少納言はそれを打ち破りたいと思っていたのではないか。痛烈な男性批判も書き残している」という――。

※本稿は、服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

岳亭春信画「蜻蛉日記」(藤原道綱母)19世紀
岳亭春信画「蜻蛉日記」(藤原道綱母)19世紀(画像=Bilbao Fine Arts Museum/yQG26RSpyE2nsA at Google Cultural Institute/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

藤原兼家の妻がノンフィクションとして書いた『蜻蛉日記』

書を書き、絵を描き、「国風」文化を創り出した役割の中に、たしかに女性たちがいた。もちろん、もっとも特筆すべきなのは、文章を書くことで自己主張した女性たちである。なによりもまず、それまでにはなかった、新しいジャンルの日記文学、『蜻蛉日記』があげられる。

『蜻蛉日記』は、はかなく生きた半生を思い起こしてみると、世間に流布している古物語の一端はどれもこれも作り物である。自分の身の上の方が、実際に起きたことであり、真実である。身分の高い人の生活を問われたとき、その実例としてみるのもいい、と書き出す。

受領の娘である藤原道綱母がトップ貴族の藤原兼家を夫に持ったセレブな生活を誇らしく思いつつも、けっして、幸せだけではない人生、しかも、事実上の離婚となったころ、この自叙伝的回想録を書き始める。わが身のはかなさを綴ること、苦悩多い半生をみつめ直すこと、ここからしか自分を救済することができない、と悟ったのである。

それまでも、自分の半生を振り返りつつ、和歌をちりばめた私家集が多くつくられていた。『蜻蛉日記』にも和歌がたいへん多い。

妻が詠んだ「いい歌」は夫の名誉のために使われていた

では、なぜ、私家集として和歌を編むのではなく、新しいジャンルとしての日記文学を創設したのだろうか。じつは、妻が編んだ私家集は、『本院侍従集』が、夫兼通の私家集とみなされたように、夫の名誉に使われることが多かった。もし、同じように歌集を編んだら、「兼家妻」の歌集として、離婚同然の夫兼家の権勢を拡大し、名声を高めるものとして使用されることは、間違いなかった。道綱母はそれを拒否したのである。

歌う女としての半生を、自分のものとして取り戻すこと。これこそ、道綱母が私歌集ではなく、新しい日記文学を創りあげた大きな理由だった、と平安文学研究者の河添房江氏はみておられる(「平安女性と文学」岩波講座『日本文学史』第二巻)。

すでにみてきたように、貴族社会、とりわけ公卿クラスは、一夫多妻だったから、道綱母の苦悩は、多くの妻たちの苦悩だった。私家集には、夫が通ってこないことを詠んだ和歌はたいへん多い。男の私家集にも、妻の恨みの和歌が取りあげられている。

浮気な夫が来ないことを妻が嘆くと、夫たちは自慢した

やだいに(野大弐)のいへにて、ひさしうおはせねば、うへ
ねざめする やどをばよきて ほととぎす いかなるそらに かきねなくらん

これは、『一条摂政集』である。一条摂政とは、兼家の兄藤原伊尹これまさである。「うへ」とは、北の方とも書かれる醍醐天皇孫、代明よりあきら親王の女、恵子女王のこと。野大弐、すなわち小野好古よしふるの娘である野内侍の所に入りびたって、久しくこないので、「いつまでもねむれずに声を待っている私の家はさけて、ほととぎすは一体どこの空で楽しそうに鳴いているのでしょう」と詠んでいる。夫にとっては、多くの女のもとに通い、妻に恨みの和歌を詠ませる方が、むしろ名誉である。誇らしげに、私家集にかかげられている。

こんな和歌と、少し長い詞書ことばがきだけでは、自身の半生をほんとうにみつめることはできない。多くの女を渡り歩く夫への恨みつらみを書くことはできない。そんなものは、こうして男に回収されてしまうのだから。

また、古物語は、男性作家が、女の道徳的観念や、女の幸福感を書いた、女の教養的物語でしかない。女たちが、自身の体験を見据え描くことでしか、ほんとうの女を表現することはできない。実際に起こった高貴な人々との交流の誇らしさだけでなく、自身の喜びを、苦悩を、第三者的目でみつめること、それでこそ多くの女たちが追体験し、共感を得ることができる。いわば人間の哀歓を、理解してもらえるのではないか。古物語にはない、人間の真実が描けるのではないか。道綱母の意図はそこにあったと思われる。

自己主張する女、道綱母は、多くのメッセージを文学に昇華しつつ、千年先の私たちにのこしてくれたのである。

洗練された文章で鋭い社会批判をした清少納言

もうひとつの女の自己主張、『枕草子』もまた、新しいジャンルである。類聚的るいじゅうてき章段、日記的章段、随想的章段、どれもこれも絵画的で短い洗練された文章であることは、多くの指摘がある。ここでは、清少納言の目からみた社会批判を取りあげたい。まずは、男へのメッセージである。「男こそなほいとありがたくあやしき心地したるものはなし」には、こんな訳をつけてみよう。

男は不思議、とてもきれいな女を棄てて、おもしろげがない女と一緒。宮中おおやけどころに出入りしている男、良家の男たちは、たくさんいる女たちから選り好め。
男よ、高嶺の花でも、死をしても恋をつらぬけ。たとえかなわぬ深窓の姫君でも、美人のほまれがあるなら、アタックしてみよう! 女からみてダメな女をどうして恋人にするの?
菊池容斎画「清少納言」
菊池容斎画「清少納言」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

教養ある理想的な女性をなぜ妻にしない? と矛盾を突いた

容姿端麗、心優しく、字も上手に書き、和歌も上手に詠む非の打ち所のない女が、ひそかに思いを寄せ、恨みの手紙をよこしたりするとき、男は、いちおう返事はするけど、結局そういう女とは一緒にならないで、取るに足りない女を妻にしてしまう。あきれて、歯がゆい。どうも男心はわからない。

男は、古物語などを通し、理想的な女像を創った。そのとおり、いうことない美人で、しかも優しい「心美人」、女の教養どおり、手を習い、歌をマスターしたのに、男はそれを見棄てて、取るに足りない女を妻にする。「たで食う虫も好きずき」というけれど、いくらなんでもおかしいじゃない!

なんだか、今でも通用しそうな男論である。

清少納言は、このような女の目からみた社会批判を随所にちりばめていてくれる。道綱母の時代よりも、およそ半世紀後、家柄が確立しつつあり、身分を越えた愛を貫く男たちは少なくなった。また、男たちが理想として創りあげた女像に身を任せても、けっして女にとって幸せが約束されてはいない。短い文のなかに、身分社会における女と男の関係を、凝縮しているように思われる。

9世紀ころまで、性愛においても、男女は対等に近かった。しかし、清少納言が生きた時代は、男優位、家柄主義、身分社会になっていた。それを打ち破りたい、と思っていたのではないか。清少納言もけっして身分を超越しようなどとは思っておらず、自身より地位の低い男女には手厳しい、という限界はもちろんもちつつも。

「宮仕えの女も男と同様に働いているだけなのに」という不満

女房勤めを批判する風潮にも、一石を投じる。

平凡な結婚をして人妻となり、将来の希望もなく、ただまじめに、夫のわずかな出世を幸福と心得て夢見ているような女性は、うっとうしくつまらぬ人のように思いやられて感心できない。やはり、相当な身分のある家の子女などには、宮中に奉公して、社会の様子も十分見聞きさせ、習得させてやりたいと思う。宮仕えする女性を軽薄でよくないことのように思ったり、いったりする男性がいるが、そんな男はまことに憎らしい。

たしかに、宮仕えをしていると、天皇、皇后をはじめ公卿、殿上人、四位などはいうまでもなく、身分の低い女房の従者どもや、里から来る使者、長女おさめ御廁人みかわやうどまで、直接顔を合わすことになるが、男だって宮中でお仕えしている以上、同じではないか。宮仕えの経験のある妻が典侍と呼ばれて、時折参内したりするのも名誉あることではないか。また受領の五節舞姫献上の折りなど、妻が宮仕え経験者であれば、人に聞いたりせずにできるではないか。
(『枕草子』「生ひ先なく、まめやかに」の段要約)
「枕草子絵巻」(部分)鎌倉時代
「枕草子絵巻」(部分)鎌倉時代(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

男が漢文を学んでいたとき、女は自国語の文学を作り出した

女はまず宮仕えにでて、さまざまな社会的体験をし、感性を磨き、そして結婚すべきだ。これも、いまでも通用する女の主張である。先ほどの文章の中に、「おおやけどころ」に立ち入れる男たちは、そこから選り取りをしたらいい、とすすめていたが、まさに、宮中で働く女たち、女房をこそ結婚相手にするのがよいとすすめている。これも、男たちの日記、たとえば実資の日記『小右記』にちりばめられている、女房勤めを非難する男たちへの、「異論・反論」である。

服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』(NHK出版新書)
服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』(NHK出版新書)

平安朝の半ばころ、道綱母や清少納言だけでなく、新しい長編小説、世紀の大べストセラーを完成させた紫式部、自分の愛を高らかに歌いあげた和泉式部、歴史の中の真実を物語に収斂しゅうれんした赤染衛門など、数えきれないほどの女たちが、文学の中で自己表現してきた。まさに、書く女たちの世紀であった。

男たちが、借り物の外国語である漢字や漢籍を下敷きに日記を書き、公的文書や漢詩をつくっていたとき、女たちは、心の内面を描写できる仮名、いわば自国語で、自己を語ったのである。この仮名文学が、わが国の平易な日本文を定着させていったことはいうまでもない。

女たちは、伝統文化の基礎をしっかりと固めたのである。