※本稿は、ソニア・リュボミアスキー『新装版 幸せがずっと続く12の行動習慣』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。
ネガティブな考えを何度も繰り返してしまう
「幸福」について研究してきたこの30年間以上、私は「反芻思考」にも強い関心を抱いてきました。「反芻思考」とは、牛が食べ物を反芻するように、ネガティブな考えを何度も繰り返してしまうことです。
友人であり研究の協力者でもあるスーザン・ノーレン=ホークセマは、20年もの歳月を費やしてこの現象を調べてきました。その現象を彼女は「考えすぎ」と呼んでいます。
考えすぎとは、文字通り「必要以上に考えすぎること」であり、いつ果てるともなく受動的に考え、自分の性格や感情をはじめさまざまな問題についての、意味や原因や結果を過度に思いめぐらすことを意味します。考えすぎる問題とは、「なぜ、私はこんなに不幸なの?」とか「この仕事をこのままずっと続けていたら、私はどうなるだろう?」「髪がこんなに薄くなってがっくりだ……」「彼はあんなことをいったが、本当はどんなつもりでいったのだろう?」などです。
落ち込んだ際、問題を解決するために、あるいは不幸せな気持ちを減らして軽くするために、自分の心の中に目を向け、感情や状況を判断すべきだと信じている人がほとんどでしょう。スーザン・ノーレン=ホークセマと私だけでなく、ほかの研究者たちは、この仮定が疑わしいのではないかと考え、かなりの量の証拠を集めました。
考えすぎると問題解決能力が損なわれる
過去20年以上にわたる数えきれない研究が、「考えすぎることが、悪い影響をもたらすこと」を証明しています。考えすぎると、悲しみは消えないどころかひどくなる場合もあり、偏ったネガティブな考えが育ち、問題を解決する能力が損なわれ、意欲が低下し、集中力や自発性が妨げられるのです。
さらに、何度も反芻している間に、自分自身についてだけでなく、問題を見抜く力も手に入れたと思い込みがちですが、実際にはそんな力をもてることはめったにありません。手に入れられるのは、自分の人生に対する、ゆがんだ悲観的な見方です。
日常的な雑事さえ耐えがたくなる
私は最近、テレサという女性から、次のような内容のEメールをもらいました。
「私は三姉妹の一番下で、ついあれこれとネガティブなことを考えがちです。くよくよ考えたり、何かを切望したり、疑問に思ったり、行き詰まりを感じたりして、幸せになれないのです」
もし、テレサが現在の自分の状況、つまり確定申告の書類の作成という仕事で、あまり顧客を獲得できないことについてネガティブに考えているとしたらどうでしょうか?「私はこの仕事に向くほど積極的ではない」「もう顧客を獲得なんかできない」「これって、仕事が見つからなかったあの夏みたいな状態だわ」「もしかしたら、仕事を辞めるべきかも」「私の家計は立ち行かなくなってしまう」というふうにです。さらに行きすぎると、「仕事に集中できない」ことから、「降りかかってくる些細なジレンマや障害を乗り越えられなくなった」という問題が生じ、しまいには「電話をかけるとか日常的な雑事をこなすことさえ、耐えがたいほどの負担だ」とみなすようになるかもしれません。
ゆがんだ予想や思い込みのせいで、テレサは実際に失敗していました。いまや彼女はほんとうに新しい顧客の獲得ができなくなりそうです。くよくよ悩んでいる人はあまり魅力的でないので、友人や同僚からも避けられるようになるでしょう。自分に降りかかるこのようなさまざまな出来事のせいで自信を失った結果、テレサはいつか不安障害とうつ症状の悪循環に陥る可能性さえあります。
あまり考えすぎないようにする
「考えすぎがよくない」という話は、研究だけでなく、世間的な教訓としても広まっています。もし、いまあなたが、くよくよ考えすぎることに悩まされているなら、やはりその習慣を打ち破らない限り、いまよりも幸せにはなれないでしょう。考えすぎてしまう人が、幸福になるための秘訣が1つだけあります。それは、あまり考えすぎないようにして、ネガティブな考え方を、もっと当たりさわりのない考え方や楽観的な考え方に変えることです。「心の底から幸せな人は、暗い考えや不安な考えから自分のエネルギーや注意をそらすことができる能力がある」と、私は気づきました。
好ましくない情報をなかなか振り払えない
日々の生活にも、たとえ小さなものでも、いらだつことや面倒なこと、挫折を感じることはたくさんあります。さらに、ほとんどの人にとって、病気や、拒絶されること、失敗、ときには絶望的なトラウマは避けられないものです。しかし、これまで私が研究してきたなかで、人生の浮き沈みに敏感に反応しすぎてしまい、好ましくない情報をなかなか振り払えない人こそ「最も不幸な人々」といえます。些細な困難や不快なこと、嫌な出来事が起きた場合に、そのような人は自己嫌悪に陥ってしまいがちです。
いまよりももっと幸せになるには、大小の差はあっても、まずはネガティブな経験に対して、「考えすぎないようにする方法」を学ぶことです。また、少なくともしばらくの間は、どんなものに対しても穴やひびを探さないようにして、自分自身や自分の生活について感じることに影響されないようにするのも重要です。
終わりのない介護でも絶望しない秘訣
私の友人のレダは、もうすぐ命を終えようとしている終末期の母親の介護で、とてもつらい日々をすごしていました。かつてレダは、終わりのない介護から毎日ちょっと息抜きの時間をとって、地元の農産物の直売所に行くという話をしてくれたことがあります。
彼女は市場などに行くのが大好きで、この直売所はとりわけ活気があってにぎやかで、品質のよい農産物や焼き立てのパン、新鮮な魚、ほかにも多くの品があふれんばかりに売られていました。1時間半ほどそこですごす自由な時間が「心の底から楽しい」とレダはいっていました。
彼女はともすると、世界で最も大切な人を失いかけていることを悲しんだり、自分を憐れんだり、医療費のことを思い悩んだり、人との付き合いがないと落ち込んだり、不安や絶望の思いに陥るのは簡単だったでしょう。もちろんレダは、毎日、困難な時間をすごしていました。でも、試練のときでさえ、彼女は自らが関心を向けられる活動に夢中になって、忙しくても、喜びを感じていられたのです。
「考えすぎる」という行為は、人間の脳が情報処理するためのたくさんのパワーを必要とします。不愉快な出来事に遭遇したり、悪い知らせを聞いたりした直後に、新聞の記事や本を読んだことはありますか? そのとき、同じ文を何度も何度も読んでいることに気づいたという経験はありませんか? また、授業中や仕事中、会話の最中など、楽しもうとしているときでさえ、考えすぎてしまうと集中できない場合もあるでしょう。
「最も幸せ」な参加者たちは思い悩まなかった
私と学生たちは、この現象について研究室で実験してみようと決めました。じつをいうと、実験の参加者のなかには、嫌な経験や自分のネガティブな面についてばかりウジウジと考えがちで、そのせいで集中できなくなり、結局、読んだり、書いたりという努力を要する日々の活動に支障をきたす人もいました。驚くことではありませんが、このような行動パターンを示す参加者こそ「最も不幸せ」だ、と報告された人たちということがわかりました。それと対照的に、「最も幸せ」な参加者たちは思い悩むことがありませんでした。
もし、あなたが「道路にあるすべての小石が気になってしまうようなタイプ」で、いつまでもくよくよ考えているなら、そのままにしておくといずれ大きなダメージとなって返ってくるでしょう。そうならないためには、幸せな人の態度や行動を真似し、いち早く「考えすぎ」から自由にならなければなりません。
人と比較することで得られるもの
毎日の生活で、私たちは気づかないうちに、友人や同僚、家族、そして映画に登場する架空の人物まで、さまざまな対象と自分を比較しています。自分より彼らのほうが、陽気で、裕福で、健康的で、機知に富んでいて、魅力的かどうかを気にせずにはいられません。「今日はどんな日だった?」と尋ねるたびに、雑誌をパラパラとめくるたびに、他人との関係についておしゃべりするたびに、私たちは「社会的比較(人と比較すること)」をしているのです。
研究結果によれば、そのような比較は有益でもあるとされています。なぜなら、目標のために努力しようとか、弱点を克服しようとする意欲をかきたててくれるからです。「ピアノの天才」といわれる人が美しいソナタを演奏するのを目の当たりにすれば、ピアノを弾いているアマチュアはもっと頑張ろうという気になるでしょう。
人との比較で害になること
これとは逆に、「社会的比較」のおかげで、自分の窮状のほうがもっとましだと思える場合もあります。しかし、たいてい「自分以外のほかの人がどんなことをしているか」とか、「どんな物をもっているか」を観察することは害になります。
たとえば、「彼のほうが高い給料をもらっている」「彼女のほうがやせているわ」というような「上向きの比較」は、劣等感や苦悩、自尊心の喪失へつながることが多いのです。その一方で「彼は解雇された」「彼女はガンが転移した」などのように「下向きの比較」は、罪悪感や他人のねたみ、反感に耐えなければならず、同様の(同じくらい悪い)運命に見舞われるという恐れにつながるかもしれません。
繊細な人はネガティブな結果がでやすい
「社会的比較」をすればするほど、好ましくない比較対象にぶつかる可能性が高くなります。そして、「社会的比較」をする人が、繊細であればあるほど、ネガティブな結果がでやすくなるでしょう。「社会的比較」は、とりわけ不公平な結果をもたらすものです。というのも、どれほど成功したり金持ちになったり、幸運に恵まれても、自分よりも優れている人はつねにいるからです。
人をうらやましく思っていたら、幸せにはなれません。「社会的比較」に注意を向けすぎる人はいつも傷つきやすく、何かにおびえ、不安を感じています。
「とても幸福である人」と「とても不幸である人」の違い
興味深いことに、自分を他人と比較するという現象は、科学者となって私が最初に研究の対象にしたものでした。私がスタンフォード大学の大学院に入った最初の年、アドバイザーだったリー・ロスと私は、知り合いや友人のなかから「とても幸福である」または「とても不幸である」と指摘された人を探して、両方のタイプの人々に詳細なインタビューをしました。私たちの最初の仮説(あとから考えると、とても単純なものでした)は、「幸福な人は、自分よりも劣った人と自分を比較する傾向があり、不幸な人は自分よりも優れた人と自分を比較する傾向がある」というものでした。
けれども、「社会的比較」について私たちが周到に用意したいくつもの質問を参加者にしたところ、幸福な人々は、そのような質問が何を意味しているのかわからなかったのです。もちろん、自分を他人と比較することの意味は彼らも理解していました。毎日の観察や人との交流、そして他人の成功や失敗、意見、個性、ライフスタイル、人間関係などについてメディアが伝えるあふれるほどの情報から「社会的比較」は簡単にできるし、避けがたいものです。
幸福な人は独自の基準がある
私たちがインタビューした幸福な人々はそんなものを気にしていないようでした。「彼女は私よりもはるかに物知りだ。だから私は平凡な人間に違いない」というように、他人の業績が自分の感情に影響を与えるわけではなかったのです。その代わりに、数学を勉強したり、料理をしたり、おしゃべりしたりしているとどれほど楽しいか、などと自分を判断するために、独自の内面的な基準を用いているようでした。
このような予備調査の結果に興味をそそられ、リーと私は比較について臨床検査をして、研究結果を強固なものにしようと決意しました。それから数年の間に私たちが発見したのは、「最も幸福な人々は他人の成功から喜びを得ることができ、他人の失敗を目の当たりにしたときは心づかいをする」ということでした。
一方で、典型的な不幸な人々からは、まったく異なる人物像が浮かび上がりました。不幸な人々は、同僚の業績や成功を喜ばずに意気消沈し、同僚の失敗や破滅を目の当たりにすると、同情せずに安堵するのです。私は学生たちとさらに多くの実験を行ないましたが、本質的には同じ結果がでました。つまり、人は幸福であればあるほど、まわりの人との比較に関心を払わなくなるということです。またしても、幸せな人たちの習慣から学ぶべき例が研究によってわかりました。じつをいえば、たえず自分と人を比べることは、「考えすぎる」という、より広く行き渡っている習慣の一部なのです。