心地よい人間関係を長く続けていくにはどうすればよいのか。エッセイストの松浦弥太郎さんは「一人でいられる自分をつくる。人と群れないことで、さまざまなストレスは減っていくし、自分を見失わず、心がおだやかな状態を保って築く人間関係のほうが、長く続いていく」という――。

※本稿は、松浦弥太郎『眠れないあなたに おだやかな心をつくる処方箋』(小学館)の一部を再編集したものです。

仲良くなることが良いこととは限らない

もしかしたらあなたは、「仲良くなること、イコール良いこと」と思い込んでいないでしょうか。

そして、「仲良くならないこと、イコール良くないこと」と考えていませんか。

とくに春になると、入学式やクラス替え、入社式、部署異動などで、新しい人間関係が生まれます。同時に、できるだけ仲良しのひとをつくらなければ、と、焦ったりするものです。

でも、僕は、「ちょっと待って」と思うのです。

さみしいからといって、うっかりひとに好かれようと努めてはいけないと思うのです。そのために仲良くしようとしないこと。それよりも、まずはひととしてたいせつなことをたいせつに生きる。一人でいられる自分であることが大事なのです。

とはいえ、日々を暮らしていく中で、人間関係のことをまったく気にせずに生きていく、ということは、難しいことです。誰もが、誰かとつながって生きているからです。

SNSでつながるイメージ
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人間関係の最終的な目的とは

では、人間関係の最終的な目的は何なのでしょうか。

僕は、「仲良くなること」ではないような気がするのです。

親しくなろうとして相手に合わせるあまり、ひととしてたいせつなことを忘れ、自分が窮屈になってしまう。そんなことより「適度な距離感で付き合っていく」ことのほうが、何倍もたいせつだと思います。若いころの僕には、それがわからなくて、つらい日々を送った経験があります。

やっぱり、一人でも多くの友だちをつくって、仲良くなりたい。好かれたい。みんなで集まるイベントがあるのなら、いつでも呼ばれる自分でいたい。

そう考えて、どんなひとに対しても笑顔で接し、自分の意見がちょっと違っていても、口をつぐんでいました。八方美人的に、一所懸命つくり笑いを浮かべながら、みんなの話に合わせていたのです。

そんな毎日を送っていれば、友だちも飛躍的に増えていきます。遊びに行く機会も、どんどん増えていきます。でも、僕は次第に気づくようになりました。友だちが増えるということは、そのぶん、人間関係のストレスも増え、同時にわずらわしいことも起きやすくなるということに。

「このひとと仲良くすると、あのひとと仲良くできないな」「どっちも友だちだけれど、彼と彼女は、もう別れてしまったし、どちらの約束を優先させようか」

そんな些細なストレスが、次々に生まれてきました。そして僕は、どんどん面倒ごとに巻き込まれるようになったのです。

「こっちの誘いを断ったのに、なんで、あっちの集まりに参加しているの?」

そう思われたりすると、自分なりの言い訳をいちいち考えなければなりません。そんなことが増えてくると、苦痛以外のなにものでもなくなってしまいます。

仲間割れに巻き込まれ板挟みに

友だちや知り合いが多いことが、一番たいせつだと思っていたのに、結果として、自分自身が疲れてしまうことになりました。友人同士の仲たがいもあったし、僕の言った言葉のせいで、仲間割れが起こり、「どっち側なんだ?」と板挟みになってしまうこともありました。

それどころか、僕はいちばん大事なものを失ってしまったのです。友だちとの関係を良好に保つために忙しくしているうちに、「自分と向き合う時間」をまったくなくしてしまったのです。それは、仲間割れによる苦痛と同じぐらい、僕にとって大きなストレスとなりました。

そして、僕は気づいたのです。「友だちをたくさん増やしても、いいことなんてない」のだと。

それからは、あえて、友だちから距離を置いて、一人の時間を増やし、自分自身と向き合うことをたいせつにするようにしました。

「TIME FOR ME」と書かれた紙
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自分と向き合う時間の大切さ

引きこもるのではなく、一人でいられる自分をつくる。いわば、誰ともつながっていなくても平気な自分でいる。そして、誰かと一緒に、という考えを持たない。他人や社会に流されるのではなく、自分の人生を生きる。そのために必要なことはなにか。学ぶべきことはなにか。変えるべきことは何かを考えました。

かんたんではありませんが、そう考えるようになった僕は、自分自身の心がいでいき、だんだんおだやかになっていくのを感じることができたのです。

僕にとって、自分自身と向き合う時間を持っておくことが、どれほどたいせつなことだったのか、そのときに痛感しました。

誰でも子どものころには、自分の気持ちに蓋をして、無理やりグループに属したり、大勢の意見に合わせようとしたりしてしまいがちです。教室で、一人でいると「かわいそう」と思われるから、できるだけ群れようとしてしまいがちです。けれども、大人になると、一人でいることは、かわいそうなことでも恥ずかしいことでもないとわかります。

他人と群れずに、適度な距離感を保つことで得るメリットは、心をおだやかにできることだけではありません。ひとに対し、誠実な態度を取れるようにもなります。ここちのよい距離感を保つことで、さまざまなストレスは減っていくし、自分を見失わず、心がおだやかな状態を保って築く人間関係のほうが、長く続いていくのです。

少なくとも「よける」ことはできる

生きていると、思いもよらぬタイミングで、さまざまなトラブルが身に降りかかってきます。もしくは感じることがあります。良い関係だと思っていた相手の態度が、急に変わってしまうようなこともあるものです。けれども、常に距離感を保つ、自分を見失わない、ということを心がけていれば、少なくとも「よける」ことができるのです。

もう一度言います。さみしいからといって、ひとに好かれようと努めてはいけません。それよりも、まずはひととしてたいせつなことをたいせつに生きる。一人でいられる自分であることが大事なのです。

女性が空を飛ぶイメージ
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人に大きな期待をしない

人間関係の話を、さらに続けましょう。

僕は、どんなに仲良しだとしても、そのひとに対して「大きな期待」をしないということを、いつも心がけるようにしています。

そもそも「期待」って、とってもわがままな感情だと思いませんか。

勝手に、そのひとのことを持ち上げて、このひとなら、自分の望み通りに動いてくれるはずだ、それどころか、自分が望んでいた以上のパフォーマンスをしてくれるはずだ、と思い込んではいないでしょうか。そういうことは、とてもおこがましいことだと僕は思うのです。「おこがましい」というのは、自分勝手だ、と言い換えることができるかもしれません。

あなたは、僕が「大きな期待をしない」などというと、なんだかすごく冷たい印象を抱くかもしれません。

でも、僕は、自分が冷たい人間などとは思っていません。むしろその逆です。「大きな期待をしない」という気持ちにたどり着いたのは、人間関係のストレスの多くは「期待」が原因であり、その期待とは、あまりにも一方的だと気づいたからです。

誰でも、悪気がなくても失敗することはあります。僕だって、なんとか自分なりによりよい生き方をしていこう、心地よい生き方をしたい、とは、いつも思っています。

でも、どう考えても、僕自身、完璧な人間ではないし、そもそも完璧な人間など、どこにもいるはずがありません。「誰もがみな、不完全である」ということを、前提にしておかないと、いけないのです。

それを前提に考えてみると、相手に対して「期待」の気持ちを持とう、だなんて、あまりに勝手すぎると思ってしまうのです。そう思いませんか? みんな、まじめに生きているとはいえ、他人の期待に応えるために生きているわけでもありませんし、どうしてもできないこと、失敗してしまうことは、いっぱいあるはず。そんなつもりはなくても他人に迷惑をかけてしまうことも、たくさんあります。「ひとは不完全である」という、その前提を、僕は忘れないようにしたいのです。

大きな期待はせずとも尊敬し信頼する

「大きな期待をしない」ということは、相手に尊敬の気持ちを抱かないということではありません。信用しないことでもありません。

松浦弥太郎『眠れないあなたに おだやかな心をつくる処方箋』(小学館)
松浦弥太郎『眠れないあなたに おだやかな心をつくる処方箋』(小学館)

僕は、仕事で出会うひとたちから、いろんな刺激をもらってきました。たとえば、同僚や先輩たち、取引先や関係者といったひとたちは、いろんな現場に行って、いま起きている最前線のトピックを知り尽くしています。いま、いちばんおいしいお菓子をつくるパティシエは誰か。この近くで、おだやかな時間を過ごせるカフェはどこか――。四方八方にアンテナを張って、情報の最先端を追いかけて生きている。そんな彼ら、彼女たちから聞く話は、じつに刺激的です。

僕自身の足で情報を集めるのには、限界がありますし、そう簡単に、あれこれと話を聞くこともできません。僕は彼らに深い尊敬の念を抱いています。

僕自身の仕事と直接の関係がなくても、たとえば、みずみずしい野菜を育てる農家のひと、長時間の仕事をしても疲れにくい椅子をつくってくれたひと、体調を崩したときに駆け込めるお医者さまなど、さまざまな側面から僕とかかわり、僕を支えてくれるひとがいます。そうしたひとたちのことを、僕は深く尊敬するし、そのひとたちの存在を忘れないで生きていきたい。

「Respect」の文字を持つ手
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この世界は「不完全なひとたち」で成り立っている

でも、そんなひとたちだって、完全なひとではないのです。期待をしてもできないことはある。日本で活躍するカメラマンでも、海外ロケではうまく行かないこともある。優秀な医師に、人生相談をしても的外れな答えをされることもあるでしょう。もちろん、どんなひとにも「不完全」なところはあるのです。「不完全なひとたち」で成り立っているこの世界で、尊敬の気持ちを抱きつつ、信頼しあい、風通しよくお互い生きていきたい。完全を求めない。そう僕は考えています。

ひとは自分の思うままにならないのが当たり前なのです。そのひとなりの人生を生きているのですから。