※本稿は、中野信子『脳の闇』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
充足しているのに閉塞感を感じてしまう
満たされない。何かが足りない。経済的に困窮しているわけでもなく、重大な問題が身の回りに起きているわけでもない。理由はわからないが、息苦しくなるような漠然とした不安がある……そういう声を時々聞くことがある。
彼らはむしろ、充足していることそのものに閉塞感を覚えてしまうのかもしれない。
何かに困っているわけではないのに、なお苦しむ、という現象は、いったいなんなのだろう。このとき、脳では何が起きているのだろうか。
そもそも生物の課題は、生存と生殖だった。この課題を解決するために、脳が進化し、発達してきたといってもいい。餌を効率的に得られる場所を探り当て、子孫を残すのに好適な伴侶を得るためには好都合な器官である。知能の高さが、社会経済的地位の高さとある程度の相関がある、という点では、他の生物と人間もそう変わらない。脳が発達していればそれだけ「餌」と「伴侶」を得やすくなるということだから。ただ、脳はエネルギーも酸素も消費量が多く、その機能を維持するコストがあまりにも高い。そのため、生存と生殖が終わると脳をみずから食べて消化してしまう生物もいるくらいだ。
この閉塞感、不安感は確かに生き延びるために必要なものなのだろう。では、これらの正体、生理的な要因はいったい何なのだろうか?
不安感の源泉にはTHPといった神経ステロイドなどいくつかの物質の関与が指摘されている。神経伝達物質のうち、不安というキーワードで想起される、もっとも代表的なものはセロトニンだろう。セロトニンは、やる気や安心感をもたらすものとして知られている物質だが、不足していると不安感を高めることが指摘されている。
不安は生物の生存にとって意味がある
不安というのは、一般的には良いものとは言われない。むしろ、ネガティブな感覚として捉えられていることが多いだろう。だが、生物の生存にとっては意味のあるものだ。予測され得るリスクを回避し、将来的にリスクになり得る要因を検出し、排除するために不安がある。つまり、生物は不安という感情をアンテナとして、未来に備えて自身が生き延びる確率を上げるために利用している。不安感情が不快で、ネガティブなものである意味もそこにある。その方が、リスクの検出感度が高くなるからだろう。
人が「そこにリスクがある」という話を好む理由
しかし、現代に生きる人間たちにとって、リスクとは何だろうか。ご存じのとおり、人間にはもはや天敵が存在しない。天敵になり得るような生物は、人間自身だけだといえる状態が長らく続いている。
未来を予測したとき、そこに大きな危険を想定することが困難であるとしたら。そのとき、自動的に生理的に生じてしまう不安感情の向かう先は、どこになるのだろうか?
人間たちの脳に備え付けられた不安というアンテナは、大きな、あるいは確実なリスクを検出することができなければ、その感度を上げて、本来ならリスクにはなり得ないようなことをわざわざ拾い上げてしまうようだ。
たとえば、近い将来に起こり得る災害の話題や、逸脱した行動のために共同体やモラルを破壊しかねないような人物の話を、多くの人は好んで聞きたがる。さらには、戦争になりかねない不穏な空気が国際的に漂っているというニュースや、真偽が定かでないような終末論にいたるまで、人間は「そこにリスクがある」という話を好む。リスクを検出すると、かえってそのことによって満足するようにすら見える。不安というアンテナの役割が、そこで一段落するからかもしれない。
満たされないと感じさせる脳の恐ろしい性質
恐ろしいのは、こうしたリスクを検出する不安感情の機能が、自分自身の存在意義や内面に対して発動してしまうときだ。人間の脳は自動的に、自身の周りにネガティブな状況を構築してしまう性質を備えている。
第三者から見れば、自分は人が羨むほどではなくとも、特に不自由のない生活を送っているかもしれない。しかし実情は、満たされない。孤独だ。何かが足りない。何のために生きているのかわからない。私の内面は、空洞だ。生そのものが、ゆるやかだが完全な自殺のプロセスであるかのように思える。
不安感情は脳の中に地獄をもたらす
不安感情は、本当は存在しないこの地獄を、脳の中に構築してしまう。
私はいまもずっと、それに悩まされている。生きることそのものが、消化試合のように感じられてしまう。博士号をとるまではまだ良かった。けれど、いまはもう走ることができない。目標をわざわざ設定するのも茶番的でしっくりこない。自分の物語、新しいストーリーが見つからずに困っているといってもいい。研究も悪くないが、結局は大学での椅子取りゲームのための論文、そんなものを書きたくない……。
こんな閉塞感や漠然とした虚しさを抱えているとき、知能は何の役にも立たない。論理も、記憶力も助けてはくれない。
むしろ、忘れる能力、論理的に考えないことによる突破力、あえて思考停止するというアプローチの方が、有効なのではないだろうか。そうすることによって、人生をもうすこしだけ生き延びる力が得られるように思える。私にとっては、そうするための装置として「結婚」があった。不安のアンテナを、鈍らせるための。
日々ささいなことに満足して幸せに生きていけることの大切さは、むしろ不快な記憶を忘れ、不安な未来を予測してしまわない鈍さがあってこそ、感じられるものではないだろうか。人間は、思い出は記憶しているけれど、記憶はすべては思い出せない。このことに、人間の能力の一端が表れているといえないだろうか。
自然に忘れる、ということを人工知能に実装するのは現在の技術ではまだ難しい。人間の脳は、機械よりはるかによくできている。必要性の薄い記憶を忘れ、論理的に考えすぎないことによって、巧みに生きていける。そう仕組まれているように私には見える。
自分の中の不安は生物としてなくてはならないもの
人間は、誘惑に弱く、欲深く、愚かで、忘れっぽい……。その方が生き延びる力が高い、ということは十分ありえることだ。承認欲求があることの意味も、そういうことなのだろう。適応の結果、承認欲求の高い個体が生き延びたのだとすれば、これを利用した方が生き延びやすいに違いない。こうしたことを私は、自分の不安、自分の中に存在している空洞を見るにつけ、しみじみと考えてしまう。
この空洞は自力で埋められるようなものではなく、それを利用しようと近づいてくる人に対する防御法もない。救いようがないと思われるかもしれないが、解決される性質の問題ではない、ということを知っておくのは、悪くないだろう。これは生理的に存在する、進化的な意味のある不安で、生物として、なくてはならない空洞と孤独なのだということを。
気づいてしまったら、それを抱えて生きるしかなく、誰もそれを助けることもできない。人間は最後は一人で死ぬ。地獄を抱えて生き延びろ、と言うしか、私にはアドバイスができない。
不安と戦わない、という方法
ただ、不安と戦わない、という方法もある。目を逸らしておく、という戦略はとても有効なものだ。忘れるとか、勘違いするとか、幻想を抱く、ということができるのは、人間にとっての福音なのかもしれない。論理的に考えれば共有できるはずもない感覚を、誰かと共有していると一瞬でも思えることがあったら、それが幸せというべきものだろう。おいしいものを食べて、別々の味をきっと感じているのに違いないけれど、おいしいね、と言い合えること。それは、とても幸せな刹那ではないだろうか。
存在論的な不安は根本的には死によって解消される。しかし、生きていることで感じられる、ちょっとした刹那の幸福の連鎖を味わい続けることが、もしかしたら、生きるということの意味なのかもしれない。