※本稿は、みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)の一部を再編集したものです。
日常生活のストレスがもたらす意外な高リスク
日常においてどのようなイベントがどの程度ストレスになるのかについて、社会学者のホームズ(T.H.Holmes)とレイ(R.H.Rahe)がまとめた「社会的再適応評価尺度」と呼ばれるものがあります。さらにこれを日本に適応できるようにした表があります(図表1)。
このように眺めると、意外な出来事が高いストレス値を示していることがわかります。誰もが体験する日常のちょっとした変化やイベントが30点、40点という値になっています。
そして、これらストレッサーの合計値と精神疾患との関連(リスク)を調べたところ、400点以上で78.8%の方が、300点台で67.4%、200点台で61.2%、100点台で57.1%、100点未満でも39.3%がリスクあり、となることがわかっています。
驚くのは、100点未満でも、4割近い人に精神疾患のリスクがあるということです。私たちは、日常の出来事であっても重なると容易にバランスを崩してしまうことがわかります。
なぜシマウマは胃潰瘍にならないのか?
ストレスに意外なほど脆弱な私たち人間ですが、動物はどうなのでしょうか?
ストレス学者のサポルスキー(Robert M.Sapolsky)の著書に、『なぜシマウマは胃潰瘍にならないか』(シュプリンガー・フェアラーク東京)というものがあります。
本のタイトルが示すように、動物には、いわゆる人間のようなトラウマはない、と考えられています。例えば、シマウマなどはライオンに襲われると、その瞬間は血圧を上げ、ストレスホルモンを出し、一目散に逃げます。しかし、危機を脱すれば、ストレス値は下がります。もしかしたらまた襲われるかも? などと考えてくよくよしたり、フラッシュバックに襲われることはありません。
人間とは違って動物が特別というわけではありません。哺乳類として私たちと同じようなストレス処理のプロセスを働かせています。ただ異なる点は、その場でサッとストレスを処理して、平常な状態に戻ること、あれこれと想像を働かせたりしない、ということです。
シマウマのストレス処理のあり方は、ストレス学者に言わせれば、理想的といえます。対して、私たち人間は知能が発達した代償として、「また、同じことが起こるのでは?」といった想像や、「もっとこうしていれば……」などと後悔にとらわれてしまいます。ストレスは物理的な脅威が目の前になく想像しただけでも起こります。高度な精神の営みは、ストレスを慢性化、長期化させてしまうのです。
生物は想定外のストレスには弱い
死に瀕するようなストレスにも驚くほど強い動物も、意図せずストレスが長引くような状況では、調子を崩してしまいます。
例えば、ライオンのいる環境で生息するキリンですが、音に敏感で神経質なため飼育が難しく、動物園でもちょっとしたノイズなどストレスが続くと健康を害したりすることがあります。馬も敏感で知られ、例えば競走馬が遠征のためにコンテナに詰めて運ばれるストレスで思うようなパフォーマンスを発揮できない、ということを耳にすることがあります。
生物は持続するストレスには最適化されていない
ストレス理論の祖であるハンス・セリエがストレスを発見したきっかけも、実は、そんな意図せずストレスが持続する状況が偶然生まれたからでした。
今ではストレス理論で名が残る大学者のセリエも、研究用のラットの扱いがあまり上手ではなかったそうです。セリエはラットをうまく捕まえたりすることができずに、ずっと追い回したり、落としたりしていたそうです。するとあるとき、ラットの消化器に潰瘍ができて副腎が膨張していることに気がついたのです。
当初セリエは、ラットに変異をもたらす未知のホルモンを発見したと喜んでいたようですが、未知のホルモンではないことを知ると、とても落ち込んだそうです。しかし、後に未知のホルモン以上の大きな発見をしたことがわかります。ラットに異変をもたらしたのは「ストレス」と呼ばれる負荷だったのです。セリエの下手な扱いがラットに想定外の負荷をもたらし、ストレスの発見につながったのです。
こうしたことからわかるのは、ストレスに対処する生体のしくみとは、基本的には短期のストレスへの対処を想定しているということです。持続的なストレスには短期の対処を繰り返すことになり大変非効率で、身体にも負荷がかかります。潰瘍ができ、臓器も疲弊してしまいます。どうやら生物の体は持続するストレスに最適に運用されるようにはできていないようなのです。
災害に遭遇しても大半の人はPTSDにならず回復するが…
人間も短期の危機には、「火事場の馬鹿力」という言葉もあるように意外に強靭な力を発揮します。例えば、被災直後は「英雄期」、「ハネムーン期」とされるように、勇気ある行動が取れたり、強い連帯を示したりします。
また、災害などの大きなストレスに遭遇しても大半の人はPTSDにならずに自然と回復していくことも知られています。その後、ストレスが持続したり、適切なサポートがない場合に鬱などに陥っていくようです。
戦争によるPTSDも実は強度の低い持続的なストレスから?
戦争によるストレス障害についても、実はその多くが、ローリスクストレッサー(強度の低い持続的なストレス)によるものであると、自衛隊で精神医療に携わってきた医師の福間詳氏は述べています。福間氏はいまだに強度のストレスばかりがPTSDの原因とされる精神医学の現状について違和感を表明しています(福間詳『ストレスのはなし』中公新書)。
ライオンに襲われても胃潰瘍にならない動物たちも、長期にわたるストレスを受けると、それが強度の面で些細であっても場合によっては命に関わるような結果になり得ます。先にご紹介したストレスの基本モデルにおいても、長く続くと「疲弊期」に入ります。
ストレスで真に問題なのは強度ではなく生体システムの裏目になるか
このように想定外に長く続くストレスは、「時間の長さ」も問題なのですが、それだけではありません。結果として、長さが生体というシステムの前提、ゲームのルールを変えてしまうのです。短期であれば最適化されていて問題なく見えるものについても、前提が変わることで様々な問題を浮かび上がらせてしまいます。
ストレスというと強弱が注目されがちですが、システムの想定内であれば動物は意外なほど頑強です。しかし、キリンの敏感さのように短期のストレスへの最適化が別の状況では裏目に出ることもあります。人間であれば、想像力といった知能の高度化が状況によっては精神的なストレスの原因ともなります。
ストレスで真に問題なのは、生体のシステムにとって予期せぬもの、システムの裏目となるか否かではないか、と考えられます。ストレスの強さや長さはそれを顕在化させる要素の一つと考えるとわかりやすいかもしれません。
ラットによる実験でも、予測できるものは、それが死をもたらすような強度のストレスであっても負荷は軽減され、予測ができないことは大きな負荷となることが明らかになっています。予測ができるとは、一貫性や秩序があるということですが、生物にとっては安心・安全に関わる非常に重要な変数(要素)であることがわかっています。
学校や会社など身近な日常におけるトラウマのリスク
学校や会社も同様です。例えば、日本では2020年度でわかっているだけで、小中高校からの報告では415人が自殺しています(文部科学省「令和2年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」)。自殺に至らずにトラウマを負う人の数は当然ながら何倍にもなると考えられます。
会社でのパワハラ、モラハラの被害はどうでしょうか? 厚生労働省の調べでは、各都道府県に寄せられる職場でのいじめや嫌がらせの相談件数は年々増加しており、2021年度で8万6034件にものぼります(厚生労働省「令和3年度個別労働紛争解決制度の施行状況」)。被害者にとっては存在を危機にさらされる、まさに地獄の苦しみです。
このように見ると日常の持続的なストレスも、トラウマの原因として見逃すことはできません。戦争や災害や犯罪のストレスによって起こるPTSDも認められるまでに長い年月が必要でしたが、これからは日常生活で被るストレスもトラウマとなり得ると広く認知される必要があるようです。