うつの予防、治療には何が有効なのか。スウェーデンの精神科医、アンデシュ・ハンセンさんは「多くのうつの患者を診察する中で、運動をしている人はうつが治りやすいのではないかと気付いた。さまざまな研究をみると、運動には抗うつ効果があることがわかってきている」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、アンデシュ・ハンセン『ストレス脳』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

電子カルテにメモを書き込む医師の手元
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患者を診ていて気付いた「運動の抗うつ効果」

私たち医療従事者は患者と接しているうちにパターンが存在することに気づく。この人は治りそうだが、あの人はあまり上手くいかないだろう、といったことを感じるようになるのだ。しかし、その直感に頼りすぎるのもいけない。たまたまかもしれないし、自分が常々思っていることを裏づけるケースほど記憶に残りやすいものだ。

しかし2010年頃に気づいたのが、うつの患者で運動をしている人たちは病院に戻ってこないことだった。何度か受診しただけで、そのあとはもう見かけないことが多かった。そのせいで、運動には抗うつ効果があるのではないかと思い始めた。

研究を調べてみると、驚いたことにまさにそのとおりなのだ。ここ10年、運動によってうつを治療する研究が多数行われてきた。私が一番驚き、かつ最も重要だと思うのは、うつの予防、つまり運動でうつになるリスクを下げられるという研究結果だ。

自転車テストとうつの関係

6分間全力で自転車を漕いでから、力の限り握力測定器を握る。その結果から今後7年間にあなたがうつになるかどうかがわかると思うだろうか。

10年前の私は、握力やエアロバイクの結果と自分が今後うつになるかどうかに関連があるなんて到底信じられなかった。別のリスク要因──例えば仕事を失うとか、パートナーに別れを告げられるとか、家族が病気になるとか、といったことならわかる。だけど握力測定器のハンドルをどのくらい強く握れるかで? そんなことが関係あるわけない! そう思ったものだ。しかし今では考えが変わった。

イギリスで15万人の被験者がエアロバイクによる有酸素運動と握力測定の簡単なテストを受け、うつや不安の症状に関する質問にも答えてもらった。7年後にまた調査をしたところ、状態が良くなっていた人もいれば、悪くなっていた人もいた。うつの基準を満たすほど悪くなっていた人もいた。

興味深いのは、精神状態の変化と7年前のエアロバイクのテスト結果に関連性があったことだ。うつになるリスクは身体のコンディションの良い人のほうが低かった。

別の言い方をすると、身体のコンディションの良い人はうつになるリスクが半分ほどに減り、不安に襲われるリスクも低かった。同じことが握力についても言え、数値の高い人のほうがうつや不安障害のリスクが低かった。しかしコンディションの良し悪しほど、はっきりした違いはなかった。

つまり、うつになるリスクは身体のコンディションの良い人のほうが低いわけだ。

さまざまな条件で行われた研究

ここで底意地の悪い言いがかりをつけてみよう。コンディションの良い人は元々健康で、飲酒量も少なく、口に入れる食べ物にも気を遣っているはずだ。だからライフスタイル要因がうつのリスクを低めていてもおかしくない。

そこで研究者たちはデータから年齢や喫煙の有無、学歴、収入といった項目の偏りを調整した。それでも同じ傾向が見られた。研究者たちはさらに、研究開始時にすでにうつや不安障害を抱えていた被験者は除いた。それでも、やはり結果は同じだった。

先述のとおり、どこまでが正常な範囲内の気分の落ち込みで、どこからがうつなのかには、はっきりした線引きがない。ということは、その研究結果もどこで線引きをしたかによって変わってくるのでは? 研究者たちはそこで、どこからがうつかという線引きを色々と変えてみた。それでもやはり同じ傾向が見られた。

あれこれやってみても、身体のコンディションの良い人はうつになるリスクが低かった。それに運動がうつのリスクを下げるという研究は他にも多数あり、これはその1つにすぎない。

ところで、現在わかっていることの全体像をつかみたければ、個別の研究だけに着目していてはいけない。たとえそれが15万人規模の研究であったとしてもだ。研究界のルールでは「1件など0件に等しい」のだから、いくつもの研究をまとめた分析、いわゆるメタ分析をしなくてはいけない。

運動でいかにうつを改善できるかという研究は、2020年には複数の研究をまとめた研究をさらにまとめた研究まで発表されるほどの規模になった。つまりメタ・メタ分析だ。その結果は──運動はうつの症状を軽減させる。確認された効果については研究の手法によって異なり、結果として高いものから低いものまであった。

若者の精神的不調に警鐘を鳴らす報告の数々を考えると、同じことが子供や若者にも言えるのかどうかが気になる。それがそのとおりなのだ。2020年に発表されたメタ・メタ分析では、運動が子供や若者のうつのリスクを下げることが示され、包括的な効果は中程度だった。それでは高齢者はどうだろうか。それもやはり同じ結果だった。

なぜ運動が効果をもたらすのか

運動がなぜそこまで私たちの精神状態に影響を与えるのかを見てみよう。

先述のとおり、長期的なストレスはうつのリスク要因だ。私たちの身体の中で最も中心的なストレスシステムはHPA系と呼ばれ、その存在は生物の歴史を何千万年も遡ることができる。HPA系を備えているという点では、人間も背骨をもつあらゆる動物──サル、イヌ、ネコ、ネズミ、トカゲ、そしてなんと魚まで──と同じなのだ。

フィットネスジムでエアロバイクをこぐ女性
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アクセルにもブレーキにもなるコルチゾール

HPA系というのはたった1つの器官でできているのではなく、身体と脳にある3つの部分が互いにコミュニケーションを取っているシステムだ。

まず視床下部(H=hypothalamus)が脳の下部にある分泌器、下垂体(P=pituitary gland)へとシグナルを送り、さらに下垂体から副腎(A=adrenal glands)にシグナルが送られる。すると副腎がコルチゾールというホルモンを放出する。コルチゾールの役割はエネルギーを動員することだ。例えば朝はコルチゾールのレベルが上がるのだが、それはベッドから起き上がるためにエネルギーが必要だからだ。

しかしコルチゾールはストレスを感じている時にもレベルが上がる。ストレスを受けるとHからPそしてAへシグナルが送られ、コルチゾールのレベルが上がるのだ。と言うと単純に聞こえるかもしれないが、実際のHPA系は非常に複雑だ。フィードバックのループがいくつもあり、自分で自分にブレーキをかけることもできる。というのも、コルチゾールのレベルが上がると視床下部と下垂体の活動が抑えられる。

コルチゾールはつまり自分自身にブレーキをかけ、ストレスホルモンとしても抗ストレスホルモンとしても機能する。これが車であれば、同じペダルがアクセルとブレーキ両方の役割を果たすようなものだ。アクセルを踏みすぎると今度はブレーキがかかるというわけだ。

運動の後、コルチゾールが下がる

精神医学の研究において重要な発見の1つに、このHPA系の活動がうつになるとたいてい変化するというものがある。その理由を考えてみる価値はあるだろう。ひょっとするとこの重要な発見は、身体と脳の両方──HPA系は両方にまたがっているから──で起きている現象なのかもしれないのだから。

一般的には、うつになるとHPA系の活動が活発になりすぎる、つまりコルチゾールのレベルが高くなりすぎる。実際、ほとんどの抗うつ治療は薬も含めてHPA系の活動を平常化するものだ(ただし、薬によってHPA系のどこに作用するかは変わる)。

しかしHPA系を平常化するのは薬だけではない。運動もそうだ。アクティブに身体を動かすことで過剰に活動しているHPA系を落ち着かせることができるのだが、それは長期的に運動すればの話だ。

短期的には、ましてや自分に鞭打って激しいトレーニングをすると、HPA系の活動がむしろ活発になってしまう。身体にしてみれば運動そのものがストレスだからだ。つまり外に出て走り出すと血中のコルチゾールのレベルは上がるが、走り終えたあとは下がり、走る前よりも低くなる。コルチゾールはその後1時間から数時間ほど低いレベルにとどまる。よく運動のあとに感じる心の落ち着きはそのせいなのだ。

運動がストレスのブレーキを強化する

数週間定期的に運動するうちに、HPA系の活動はゆっくりと落ち着いていく。そうすると運動のあとだけでなく、もっと長くその状態が続くようになる。HPA系にいくつもブレーキがあるせいかもしれない。中でもとりわけ重要な2つのブレーキが、記憶の中枢として知られる海馬と、額の内側にあり抽象概念や分析的思考を司る前頭葉だ。

海馬と前頭葉はどちらも運動によって強化される。海馬は運動によって物理的にも大きくなるし、前頭葉には細かい血管ができ、酸素の供給や老廃物の除去の能率が上がる。つまり運動によって脳に内蔵されたストレスのブレーキが強化され、それだけでなくHPA系が自分自身にブレーキをかける能力も向上するのだ。HPA系が自分の活動に対してより敏感になるということだ。それによってアクセルとブレーキを兼ねるペダルのブレーキ機能も強化される。

運動の炎症抑制効果

うつというのは様々な神経生物学的プロセスによって引き起こされる多様な状態の総称だ。HPA系の活動が過剰になる以外に、すでに書いたように体内の炎症も関係してくる。また、神経伝達物質であるドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリンのレベルが低いこと、そして脳の「肥料」であるBDNF(脳由来神経栄養因子)のレベルが低いこととも関連づけられる。おまけに島皮質(側頭葉に接していて、感情に重要な役割を果たす)の活動が変化し、扁桃体が活発になる。

そういったメカニズムは複数起動する可能性があり、多かれ少なかれうつ患者に大きな影響を与えている。だから、その患者はドーパミンが少なすぎるとか、扁桃体が活発すぎるとか、炎症を起こしすぎているからだとか断定することはできない。しかし運動に関して言うとそれは問題にはならない。どの要因であっても運動にはたいてい真逆の機能があるからだ。

運動はドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリンのレベルを上げ、BDNFのレベルも上げる。長期的には炎症を抑える効果もある。なぜかと言うと、運動することによってエネルギーが消費され、そのエネルギーの一部は免疫系から奪われてくるので免疫系の活動が抑えられる。

それは良くないように思うかもしれないが、慢性的な炎症というのはたいてい免疫系が過剰に活動しているせいなのでそれで良いのだ。活動が活発すぎるのを運動が落ち着かせてくれるのだから。

運動ほど抗うつ効果があるものはない

運動はまた、海馬に新しい脳細胞ができるスピードを上げ、HPA系を平常化させる。他にもまだまだあるが、言いたいことはもうわかってもらえたと思う。生物学的見地から言うと、うつに対して運動ほど真逆に働きかけるものは思いつかない。

アンデシュ・ハンセン『ストレス脳』(新潮新書)
アンデシュ・ハンセン『ストレス脳』(新潮新書)

もう1つ、運動の抗うつ効果を理解するためには感情がどのようにつくられるかを考えてみるのもいい。先に説明したとおり、感情とは島皮質が知覚刺激と体内で起きている状態をまとめたものだ。つまり、あなたの感情の状態は身体の外と内からのシグナルを材料にしてつくられる。

一方、運動をすると身体の各器官や組織が強化される。血圧、血糖値、コレステロールが安定し、肺の酸素供給能力も向上し、心臓や肝臓が強化される。そのおかげで脳には今までよりも良いシグナルが届いた上で感情をつくることになる。そうすると不快な感情よりも、心地良い感情がつくられる可能性が高くなる。

実際、運動はうつを予防するためにできる最も重要なことの1つなのだ。