日本で根強く残る根性論。しかし努力では解決できない問題もある。人気エッセイストであり、ハーフでもあるサンドラ・ヘフェリンさんは「『自分の努力でなんとかなるはず』という強者の視点が弱者を追い詰めてしまう」と警鐘を鳴らす――。

※本稿は、サンドラ・ヘフェリン『ほんとうの多様性についての話をしよう』(旬報社)の一部を再編集したものです。

ヘレン・ケラーの発祥地
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根性論で健康は語れない

「健康であることは喜ばしいこと」――世界中のどこの国であっても、どの文化圏であっても、この意見に異論のある人はいないと思います。

それでも私は「健康に気をつけてがんばります!」という言葉を聞くたびにドキッとしてしまいます。「健康なのは良いことだけれど、健康って努力や気をつけることだけで達成できるの?」と考えてしまうからです。

確かに自分が正しい体調管理をすることで、風邪をひいたり、病気になることを防げることもあります。十分な睡眠をとり、食生活に気を配り、適度な運動をし、規則正しい生活をすることが「身体に良い」のは誰もが認めるところです。

その一方で、風邪をひいたり、病気をした人に対して「それは本人の体調管理がなっていないからだ」と安易に決めつけるのは問題だと思っています。少し前まで日本では「ちょっと熱が出たぐらいなら、出社するのは当たり前」と考える社会人は少なくありませんでした。

誤解を恐れずにいうと、コロナ禍になって良いことがあったとしたら、熱があっても学校や会社に行くのが当たり前といった“根性論”がなくなったことだと思います。コロナ禍では熱が出たら休むことが求められているわけですから。

人間の身体について考えるとき、健康な身体を持った人しか視野に入れていないことは大きな問題です。

体調は自分でコントロールできて当たり前なのか

先日、私は『食べることと出すこと』(頭木弘樹著/医学書院)という本を読みました。潰瘍性大腸炎という難病を抱えた著者が自らの日常生活についてユーモラスに書いた本です。

彼女の台所で一人で立って、彼女のビタミンを取る認識できない女性のクロップドショット
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潰瘍性大腸炎になってから著者はほとんどのものが食べられなくなってしまいました。脂肪が多いもの、食物繊維が多いもの、果物でもイチゴのようにタネが取り除けないもの、コーヒー、紅茶、アルコールや甘いもの、乳製品もダメで、コショウやトウガラシのような刺激物もご法度です。

「こうして、一時間くらいの食事指導の間に、私の食大陸はほとんどが他国の領土となってしまい、残された我が領土は、驚くほどわずかなものだった」と著者は書いています。

ところが世間では偏食をする人は何かと非難されがちです。驚いたことに、難病で食べられない人に対してもそう簡単に納得しない人がいるのだそうです。

そこには「努力をすれば食べられるようになるんじゃないか」「病気は気の持ちようで治るんじゃないか」という、体調は自分でコントロールできて当たり前という考えが根底にあると思うのです。

潰瘍性大腸炎でも「食べられないのは努力不足のせい」だと説教される

潰瘍性大腸炎という難病が気の持ちようで治ることはないのに、この病気を抱えた人は「そんな性格だから病気になるのだ」というお説教の対象になりがちだといいます。

そこには自分の身体なのだから自分の努力で何とでもなるはずという健常者側の「勝手な解釈」があります。難病を抱える頭木さんは「努力は素晴らしいものだが、うまくいかないことを全て『努力不足のせい』にされたら、たまったものではない」と疑問を呈ていしています。

この本を読んでからと言うものの、私は以前にも増して、「健康に気をつけてがんばります!」が嫌いになりました。

「心身ともに健全な者」にしか受験資格が与えられない私学への違和感

基本的に「公」の場での身体が弱い人に対する配慮のない言い方は気になります。

たとえば一部の私立中学や高校の受験資格には「心身ともに健全な者」と記載されていることがあります。難病を抱えていたり身体に障がいのある子供は門前払いになってしまい、試験さえ受けさせてもらえないこともあります

「健全」という言葉を辞書で引くと「正常に働き、健康であること。完全なこと」とあります。

ただ、学校や会社など、どこでもそうですが「完全な人」ばかりを求めていては、実際にこの社会に存在する「完全でない人」を排除してしまうことになります。そのような状態を健全だとは言えないのではないでしょうか。

子供が生まれたとき、「将来はどんな子になってほしいですか?」と聞かれた親が「人に迷惑をかけない子で、健康であってくれれば、それでいい」と答えることがあります。

わが子が健康であることは、どこの国の親も望むことです。このように親がプライベートなこととして家族の健康について語るのは問題ありませんが、その一方で、会社など「公」の要素が強いところで、やたらと健康や体調管理を強調するのは問題だと思うのです。

そこには力を持つ者や立場が上の人が、下の者に言い聞かせる側面があります。たとえば「体調管理も仕事のうち」という言葉をよく聞きますが、社長が社員に対してそれを言うことはあっても、社員が社長に対して言うことはまずないでしょう。

組織の中で立場が上だからといって、部下の健康にまで言及してよいものなのでしょうか? ドイツで育った私は毎回疑問に思うのです。

日本とドイツの「健康でいてね」のニュアンスの違い

では、ドイツでは他人の健康に全く言及しないかと言うとそうではなく、人と会って別れ際に「Bleib gesund!(健康でいてね!)」と言うことがあります。日本語の「元気でね」というような意味合いです。

カップルが家で過ごす時間
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「健康でいてね」「元気でね」はどちらも優しい言葉です。そんな言葉を大事にしたいとは思うものの、相手に対して「元気でないと許さない」「病気になっても知らないよ」というニュアンスを含んだ言葉を投げかけることは問題だと思います。「体調管理は自己責任」というような言葉にはそういった冷たさを感じます。

ドイツが目指す障がい者がスムーズに動ける社会とは

ドイツでは2002年5月1日から、障がい者の平等が法律(ドイツ民法典)で義務付けられています。これは、かいつまんでいうと「障がいがあるからという理由で、不利益を被ることは許されない」ということです。

山や川、海、ビーチ、森などの自然についてバリアフリーは望めないものの、人の手の入った場所であればどこでもバリアフリーにすることが求められています。道を作る場合もそうですし、建物を建てるときもそうです。自動販売機も車いすに座っている人が押せる高さにボタンがないといけません。

事前の予約をしなくても、複雑な申請をしなくても、そして理想は人の助けを借りなくても、たとえば車椅子に乗っている障がい者が一人で自由に動けるようになるべきだとドイツでは考えられています。

ただし、石畳の道や古い建物も多く、まだまだ追いついていないことも。そんな場合は人の助けが必要となりますが、ドイツ人が長期的に目指しているのは「人の助けを借りなくても障がいのある人がスムーズに動ける社会」です。

ところでドイツの社会は動物に優しいですから、犬は子供料金でケージに入れずに電車に乗れるし、犬が入れるレストランも日本よりもたくさんあります。

日本には「ペット不可」のマンションがよくありますが、ドイツにはまずありません。そういった事情も関係していて、盲導犬はペットではなく目の見えない人にとって必須の存在だという知識はドイツ社会にゆきわたっています。そのためどんな場所を盲導犬と一緒に歩いていても注意をされたり退室を求められることはありません。

けれど日本では盲導犬を連れた客の入店を断った店が、のちに「不適切だった」と謝罪したというニュースがしばしば流れます。一部のお店は動物が店内にいると不衛生だということを真っ先に考えてしまい、盲導犬がいないと生活がままならない人がいることまでに考えが及ばないようなのです。

ドイツで目にするオシャレな車いすが日本では見かけられないワケ

ドイツの街を歩いていると、オシャレな車椅子を見かけることがよくあります。乗っている本人の好みに合わせて、派手な色をしていたり、模様が入っていたりします。

あるとき「うわー、パンクな感じの車椅子だなあ」と思い、乗っている人を見たら……本当にパンクな感じのお兄さんでした。

日本の障がい者は「公」の場でそこまで個性を出していない気がします。本人がそれで居心地が良いと感じているのなら、何の問題もありません。

でも、ほんとうはもっと自分の個性を出したいけれど遠慮しているのであれば、やっぱり本人が堂々と自分の好みや個性を出せるような雰囲気を社会全体で作っていかなければならないと思います。

「ヘレン・ケラーはどんな人?」日本とドイツの文脈の違い

子供の頃から日本語を勉強していた私は、当時、日本の小学生が読んでいた野口英世やナイチンゲール、ヘレン・ケラーなどの偉人の伝記を一通り読みました。

ドイツだとヘレン・ケラーは「障がい者の福祉制度に貢献した人」として知られています。でも日本ではヘレン・ケラー本人のがんばりにスポットが当たっている気がします。彼女が多くの努力を重ねたのは事実ですが、それが努力をすればどんな困難でも克服できるという文脈で語り継がれていることは疑問に思います。

自分ががんばることは大事なことです。でも全員にがんばることを求めてはいけません。たとえば、ヘレン・ケラーと同じ障がいを持っていても、同じような努力ができない人もいます。また、努力をしても同じ結果にならない人もいます。

障がい者を励ます時にヘレン・ケラーを出してはいけない

ドイツでヘレン・ケラーが「障がい者の福祉制度に貢献した人」として知られているのには理由があります。

サンドラ・ヘフェリン『ほんとうの多様性についての話をしよう』(旬報社)
サンドラ・ヘフェリン『ほんとうの多様性についての話をしよう』(旬報社)

彼女はアメリカの裕福な白人家庭の出身でした。だから両親はサリバン先生という家庭教師を雇うことができました。けれど、もしもヘレン・ケラーが黒人の貧困家庭出身だったら、家庭教師を雇うことはできなかったでしょう。努力をする機会さえ与えられなかった可能性が高いのです。

だからこそ、障がい者全員に助けがゆきわたるよう、欧米では、ヘレン・ケラーの話は福祉にスポットを当てて語られるのです。

障がいのある人が悩んでいるとき、健常者が「でもヘレン・ケラーは」と言って励まそうとすることは避けるべきです。

「やれば、できる」は自分自身を奮い立たせるために、自分自身にハッパをかけるために使うのはいいけれど、自分とは立場が違う人や、悩んでいる人に対して言ってしまうと相手を追い詰めることになりかねません。