※本稿は、野口悠紀雄/ほか著『日本人の給料 平均年収は韓国以下の衝撃』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
好景気でもなぜ給料は上がらなかったのか
政府の統計によれば、1990年代前半のバブル崩壊後の30年間で、日本では長い好景気が2回あった。2002年2月に始まる「いざなみ景気」は2008年2月まで実に73カ月間も続き戦後最長を更新した。2008年にリーマンショック、2011年3月に東日本大震災に襲われたあと、2012年12月に始まる好景気は2018年10月まで71カ月続き、いざなみ景気を上回る勢いだった。
しかしこの間、日本人の給料は長期減少傾向が続いたため、多くの人たちが好景気を実感できなかった。長年にわたり賃金の動向を見続けている北見氏によれば、とりわけ1997年の金融危機後の10年間の給料減少は激しかったという。そして、安倍政権は雇用者数の増加と給料総額の上昇をもってアベノミクス成功を喧伝したが、内実を見ると様相は異なるのだ。(取材日:2021年8月20日)
この30年間で日本人の給料はどの程度減少したか
【北見】公的機関と民間を合わせて賃金の調査はさまざまありますが、一番信頼できるデータは毎年11月頃に公表される国税庁の「民間給与実態調査」です。非課税の通勤手当を除いて、年末調整後の給与と賞与の合計が算出されているからです。
これによれば、正規と非正規を合わせた日本人の平均年収は、1997年の467万3000円をピークとして下り坂を転げ落ち、リーマンショック翌年の2009年には405万9000円まで下がりました。約10年間で年収は61万円減り、減収幅は1カ月で5万円を超えたのです。
その後、2010年、11年、12年が底となり、第二次安倍政権が発足して2013年から上昇に転じ、2018年までの6年間で平均年収は440万7000円まで上がりました。しかし、上昇に転じて給料が上がり続けたとはいえ、2018年の平均年収はピークの1997年より約30万円も低いのです。
2019年は若干落ちて436万4000円。これは同年10月に消費税が8%から10%に増税された影響があるかもしれません。コロナ禍の影響を受けた2020年の平均年収は、国税庁の9月の公表によれば、前年から0.8%減って433万円でした。しかし9月の公表は概要だけです。
11月に公表される詳細を見れば、より深刻な面が見えてくるかもしれません。
1997年以降、日本人の給料は長期的に見れば減少傾向が続いており、まさに“失われた20年”と言えるのです。
1997年からの10年間は特にひどい状況だった
【北見】勤続年数1年未満の人も含む勤労者が受け取った給料の総額は、1997年の220兆円が2007年には201兆円まで減り、10年間で約20兆円消えました。
文字どおり“消えた年収”です。そしてこの10年間で、年収300万円以下の人の割合は32.2%から38.6%へ6.4ポイントも増えました。この数字を見ると低所得者が増えて、いわゆる格差が開いた印象を持つかもしれませんが、実はそうではなく、年収1000万円超の人数も減っています。この期間は日本全体で低所得化が進んだのです。
私の地元の名古屋市は、この期間、自動車産業がけん引していち早く景気が浮揚したと見られていました。しかしそれは先入観であり、実態は異なることがわかりました。あの頃は新聞を開けば自動車関連産業の求人広告が溢れていましたが、少なからず驚いたのは自動車産業に従事する人の数は増えていなかったことです。
国税庁が発表する給与調査は、全国12の国税局ごとの集計や、おおまかな業種ごとの集計も行っています。これを見ると、自動車産業が含まれる「金属機械工業」の分野に従事する人数は、東海地方では100万人からほぼ横ばいで増えていません。
非正規雇用ばかりが増えていた
逆に「サービス業」は14万人増えていました。自動車関連工場に非正規雇用者を派遣する人材派遣業はサービス業に含まれます。要するに自動車産業で非正規雇用者ばかりが増えたと推測できるのです。
東海4県(静岡、愛知、岐阜、三重)を管轄する名古屋国税局管内でも、1997年から2007年までの10年間で、給料の総額は1兆3000億円減りました。
そして年収700万円を超えていた人の割合は17.4%から13.6%に減り、逆に、年収300万円以下の人は31.5%から36.6%まで増えました。総じて低所得化が進んだのです。しかし唯一、平均年収の上がった人たちがいます。それが5000人以上の事業所で働く男性です。大企業で働く男性はこの期間、人数こそ33万人から31万人まで減りましたが、平均年収は716万円から735万円まで増えました。名古屋における景気浮揚の実態は、ごく一部の人だけが享受したということなのです。
一部しか恩恵を受けていない「いざなみ景気」
【北見】全国で見ても、この恩恵にあずかったのは大企業の一部の人たちだけでしょう。1997年の金融危機のあと、大企業は正社員の数を抑制し、給料の低い派遣社員など非正規社員を増やしました。リーマンショックが起きるとこうした非正規社員は切り捨てられ、2008年末からの年越しでは、生活困窮者のために東京の日比谷公園に年越し派遣村ができたのは周知のとおりです。
ちなみに先ほど、賃金の調査はさまざまあると言いましたが、アテにならないのが、公務員の給料に反映される人事院の民間給与実態調査です。これによれば、勤労者の年収は1997年からの10年間で2万1000円も上昇したことになっているのです。この調査は対象企業を抽出して調査員が実地調査しているのですが、公務員の給料を上げるために民間企業の給料が上がったと見せかけたようにしか思えません。
中小・零細企業の平均年収は大企業の半分
【北見】安倍政権は賃金を引き上げるために官製春闘を実施して、政策として最低賃金の引き上げも続けました。その効果はあり、平均年収が上昇に転じたことに加え、正規従業員の数は2012年の3012万人から2019年の3485万人まで473万人も増えました。正規従業員の平均年収は、同期間で468万円から505万円まで37万円増えています。
しかし、アベノミクス以降は大企業と中小企業、または東京と地方などの格差が開きました。国税庁の統計では、資本金に応じて企業を分類しています。一番大きい企業群が資本金10億円以上(大企業)で、一番小さい企業群は資本金2000万円未満(中小・零細企業)です。両者を比べると、大企業の平均年収は2012年の653万円が2019年には705万円まで増えており、中小・零細企業の平均年収も同様に同期間で359万円から395万円まで増えているのですが、その差は295万円から311万円に開いたのです。そして大企業の平均年収705万円に対し、中小・零細企業の平均年収は395万円。割合にして56%であり、大企業の半分です。
社会保険労務士として長年従業員の給料を見てきた実感
【北見】さまざまな格差が改善されている印象はまったくありません。たとえば企業の内部留保の積み上がりが時に問題視されますが、アベノミクス以降、大企業では内部留保がガツンと積み上がる一方で、中小企業は内部留保できるほど利益は出ていないのです。
また、国税庁の民間給与実態調査は各国税局管内地域ごとの数字が出ますが、全国12の国税局ごとに見ると、明確に格差が開いたのです。
全国の平均年収は2012年から2018年までに32万7000円増えましたが、平均年収が増えた1位は東京国税局管内(東京、神奈川、千葉、山梨)で40万2000円増、2位は札幌(北海道)で38万6000円増、3位は沖縄(沖縄)で37万4000円増。全国平均よりも増えたのはこの3国税局管内だけで、東京の一極集中が見て取れます。札幌と沖縄が増えたのはいわゆるインバウンドの影響かもしれません。
続けると、4位の名古屋(愛知、岐阜、静岡、三重)は31万9000円増、5位の関東甲信越(埼玉、茨城、群馬、栃木、新潟、長野)は30万円増。そして以下は30万円を割り、6位の広島(広島、岡山、山口、鳥取、島根)は28万8000円増、7位の大阪(大阪、兵庫、京都、滋賀、奈良、和歌山)は27万8000円増、8位の仙台(青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島)は24万9000円増、9位の金沢(富山、石川、福井)は24万7000円、10位の熊本(熊本、大分、宮崎、鹿児島)は24万4000円増。そして増加額20万円を割るのが11位の福岡(福岡、佐賀、長崎)の19万円増、最下位の高松(徳島、香川、愛媛、高知)の18万3000円増です。福岡と高松に至っては東京の半分も上がっていません。
男性と女性の格差をも拡げていた
また、男性と女性の格差は相変わらず大きく、しかもその格差は開いている傾向が見えます。2018年の男性の正規従業員の平均年収は560万円ですが、女性の正規従業員は386万円でしかなく、男性の約7割です。そして2012年から18年までに男性は39万4000円増えているのに対し、女性は36万4000円しか増えていません。
アベノミクスにより平均年収は上昇に転じて正規従業員が473万人増えたため、一見すればある程度成功したように見えますが、東京と地方、大手と中小、そして男性と女性の格差は開きました。アベノミクスの利益は東京の大企業が独り占めしたように見えます。しかし繰り返しますが、それでも1997年のピーク時に比べればまだ30万円も低いのです。