日本の法律上、同性婚はいまだ認められず、パートナーシップ制度を用いても税金の控除や死亡時の相続金が受けられないなど、問題は山積みだ。ライフネット生命創業者でAPU学長の出口治明さんは、「日本は先進国に比べて2周も3周も遅れている。明治より前の日本はもっとオープンだったのに」と指摘。マイノリティを受け入れることに対する反対意見を一つひとつひもといていく――。

※本稿は、出口治明『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

グレーのスーツに身を包んだ2人の新郎が、同性のゲイカップルのために小さな白いウェディングケーキを飾る
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結婚やパートナーシップが認められないのは、先進国で日本くらい

まずファクトチェックをしてみましょう。

日本は世界の先進国ということになっていますが、先進国中の先進国の集まりであるG7でLGBTQの扱いがどうなっているかというと、5つの国で合法的に結婚ができ、1つの国で正式な結婚でなくてもフランスのPACS(連帯市民協約)のようなパートナーシップ(シビルユニオン)が認められています。

それに対して日本では法的な結婚は認められておらず、パートナーシップも60ほどの自治体でかろうじて結べるだけの状況です(2020年10月末現在)。このような国はG7では日本のみです。

僕が創業したライフネット生命は、生保業界で初めてLGBTQパートナーの保険金受け取りを認めましたが、これは原点に立ち返って考えてみれば当然のことです。生命保険ができたのは約250年前、2人で生活していて片方が死んだら残された方は生活に困るというところから始まりました。その原理原則からすれば、2人が同性か異性かは関係ないはずですよね。

認めない理由として憲法を引き合いに出す人もいます。憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという記述に照らせば、日本では同性婚は許されないというのです。

しかし、たとえば憲法学者の木村草太さんなどは、憲法24条と同性婚やLGBTQは十分両立し得ると主張されています。LGBTQの法律論に関心のある人は木村さんの本を読んでみてください。

多数決で決めてはいけない問題

LGBTQのような少数派を認めていけば、社会の秩序が崩れてしまう、どこまで尊重すればいいのかキリがない、という声もあります。

そうした問題を考えるときに留意しなければいけないのは、その問題は多数決で決めていいのかどうか、ということです。たとえば、消費税を15%に上げるかどうかは多数決で決めていい。しかし、基本的人権はどのような社会であっても多数決とは関係なく、保障されなければいけない問題です。

LGBTQは基本的人権の問題で、多数決の問題ではありません。

同様に夫婦別姓問題も、ほとんどの場合は女性が姓を変えているので女性に対する人権侵害だという理解が国連でもなされており、やはり多数決の問題ではありません。ですから、国連は3回にわたって、夫婦別姓を認めるよう日本に勧告を行っているのです。ちなみに法律婚で夫婦同姓を強制しているのはOECD加盟国の中では日本だけです。

社会問題について考えるときは、数の論理で判断できるのか、それとも数の論理とは関係のない人権に関わる問題なのかを、分けて考える必要があります。

人権の保障はそもそも手間とコストがかかる

LGBTQの人権を保障する政策を実現させていくと、かなりの社会的コストがかかるという指摘もあり得ます。性別を変更する手術を全面的に認め、戸籍の変更を認め、法律婚も認め、それに付随する相続に関する法律も変え、学校などでは更衣室やトイレも改装するなどしていくと、たしかにかなりの手間とコストが必要です。

ですが、そうした現実面の課題は時間をかけて1つずつ解決していくしかありません。たとえば、デンマークでは時間をかけて1つずつ課題を潰していきました。その結果、デンマークではほとんどのトイレが男女別にはなっていません。全部が同じような個室仕様です。基本的人権や個人の尊厳に関わる問題は、時間やコストがかかってもやっていくしかないのです。

すべてのジェンダーのためのトイレを示すサインプレート
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コストや手間がかかることでも、慣れればそれが当たり前になるという実例はたくさんあります。たとえば、プライバシーを守るために、個人情報を書いたハガキに黒いシールを貼ることがそれです。これなども面倒といえば面倒だし、コストもかかることですが、プライバシーは大事だという意識が浸透した結果、当然のこととして受け入れられるようになってきました。

LGBTQもそれと同じです。子どもの権利も女性の権利も障がい者の権利も、多くの人権は、最初は「余計な手間とコストがかかる」と批判されながら、現実的な施策をひとつひとつ積み重ねることによって、権利として確立してきたという歴史があります。

日本は先進国標準から2周も3周も遅れている

タテ軸で見る、すなわち歴史的に見れば、日本はもともと性的マイノリティに対して寛容な社会でした。室町時代には、足利義満が世阿弥という美少年をいつも自分の側に置いていたため、貴族たちが「あまり人前で男の子をかわいがるのは見苦しい」と日記に残しているほどです。室町時代は、日本文化の象徴といわれる茶道や華道が始まった時代ですが、当時は同性愛に対して寛容でした。

平安時代にも『とりかへばや物語』のように、今日でいえばLGBTQにあたる人物が登場する物語があります。LGBTQに厳しい眼を向けるようになったのは、男女差別の激しい朱子学に範を得て天皇制をコアとする家父長制の国民国家をつくろうとした明治以降のことで、それ以前の日本ははるかにオープンな社会だったのです。

ではヨコ軸で見たらどうでしょうか。

日本は特別な国だから他国は参考にならないという人がときどきいますが、そもそも人間はホモ・サピエンスという同一種です。世界の先進国がこぞってやろうとしていることは基本的には間違いが少ないという仮定に立ったほうが、賢明な選択ができると思います。

したがって、LGBTQについては、ヨコ軸で考えても、社会的に認めていく方向が妥当だと判断できます。冒頭でも述べたように、G7の中で同性婚を法律で認めている国は5カ国、国の制度としてパートナーシップ(シビルユニオン)を認めている国が1カ国です。これに対して日本は2020年10月末現在でまだ60ほどの自治体がパートナーシップを認めているだけなので、エビデンスベースで考えれば2周、3周遅れもいいところです。

同性愛は動物としての本性に反するのか

男と女が結婚して子どもを授かるのが生物として自然なありようだ、同性愛は動物としての本性に反しているという意見もあります。その意見は100%間違いではありませんが、かといって、そのこととLGBTQの権利を保障することとは矛盾しません。

出口治明『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)
出口治明『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)

動物には大きい配偶子を持つ性=メスと、小さい配偶子を持つ性=オスがいます(生殖細胞のうち、接合して新しい個体をつくるものを「配偶子」といいます)。人間も動物なのでオスとメス、両者の配偶子が合体して子孫をつくります。

ところで、人間以外の動物でも、子どもをつくらないものがいます。大きい配偶子のもの同士が一緒に生活したり、その逆だったりするケースがあり、少数派が存在するのです。

LGBTQや障がい者は、端的にいえば、すべての動物において一定の確率で生じる少数派であって、存在して当たり前なのです。ハンディのある個体やマジョリティとは性質の異なる個体が一定割合含まれているのが、多様性があるということであり、それが自然の本来の姿です。

したがって、人間においても、そのような少数派をインクルージョン(包摂)するほうが、社会のあり方としては、はるかに健全だといえます。

多様性を活かすインクルージョンの発想

LGBTQからは逸れますが、インクルージョンは都市のあり方にも当てはまります。20世紀の都市論は、世界遺産になった上野の国立西洋美術館を設計したル・コルビュジエの思想が1つの基盤になっています。都市の中に大きな道を縦横に走らせ、ここは住宅地区、ここは商業地区、ここは工業地区とセパレート(分離)してゾーニングするという発想です。ブラジルの首都ブラジリアはこの思想に則って建設されています。

この考え方に真っ向から反対したのがジェイン・ジェイコブズというアメリカ人のジャーナリスト・都市研究家です。彼女は真っ直ぐな道など面白くも何ともない、道はくねくねと曲がっていて、どこへつながっているのかわからないほうが楽しい、町も商店やオフィス、住宅などがごちゃ混ぜのほうがいい、なぜならば人間は仕事もすれば、モノも買うし、生活もしているのだから、と主張しました。インクルージョンの発想です。

20世紀の都市論は、この2つの思想のあいだで争われました。どちらの町が楽しいかはいうまでもありません。どこかの国へ行き、とてもきれいで大きくて真っ直ぐな目抜き通りがあって、その裏になんだか怪しげな小道があるとしたら、皆さんはどちらの道を歩くでしょうか。

僕なら迷うことなく怪しげな道のほうへ行きます。大きくて真っ直ぐな道は車には便利でしょうが、人間にとっては決して魅力的ではありません。一目で遠くまで見通せてしまう道より、人の営みのにおいがする路地を歩きたいというのが、人間の素朴な心理ではないでしょうか。

こんなことからも、僕は、セパレートの思想よりもインクルージョンの思想のほうが、人間性に即していると思います。

“少数派”も暮らしやすい社会の実現は急務

セパレートの思想は産業革命によって均質な労働者を確保するために生まれました。学校がその典型です。そして、セパレートの思想は均質な労働者に加えて、国民皆兵にも合致したため、国民国家の中で急速に市民権を得ていきました。それ以前の人間社会はインクルージョンの社会でした。つまり、セパレートの思想のほうがずっと新しいのです。

インクルージョンの思想に基づけば、事業主に一定割合の障がい者を雇用するよう義務づけている障害者雇用促進法は意義あるものといえます(民間企業は2.2%、国や自治体は2.5%)。

ところが、2018年には、国や自治体が、障がい者の雇用率を水増しするという、実に情けない事実が次々と発覚しました。

2周も3周も周回遅れの日本で、LGBTQや障がい者など少数派の人たちが安心して暮らせる社会の実現は、急務です。少数派の人たちに優しい社会は、実は多数派の人たちにとっても暮らしやすい社会なのです。

ちなみに最近の僕は、LGBTQより広い概念であるSOGI(Sexual Orientation & Gender Identity 性的指向と性自認)という言葉を、なるべく使うようにしています。