「スターバックスのOB、OGって、8万人ぐらいいるんです。学生のときにアルバイトをしていた人が、卒業後にほかの会社に就職して、10年くらい経って転職して戻ってくるケースが最近増えてきています」
スターバックス コーヒー ジャパンで人事・管理統括オフィサーを務める荻野博夫さんは、そう言って顔をほころばせる。
スターバックスといえば、離職率が低いといわれているが、「辞めない」だけではない。1度離れたアルバイトや従業員も「もう1度働きたい」と戻ってくる。東京ミッドタウン店でアルバイトとして働く石黒歩美さんもそんなひとりだ。
石黒さんは、2018年2月に開催された同社の社内競技会「コーヒーアンバサダーカップ」でチャンピオンに輝いた。この大会は、コーヒーの専門的な知識を深め、社内試験に合格したバリスタにのみ与えられる「ブラックエプロン」の頂点を決める年に1度のイベント。同社では社長からサポートセンター(本社)の社員、店舗のアルバイトにいたるまで、職位にかかわらず同社で働く人のことを「パートナー」と呼ぶ。全パートナーの1割程度しかいないブラックエプロンの中でも、全国から予選を勝ち抜いた精鋭が集い、コーヒーのテイスティング技術や、カスタマーサービスの能力を競った。
石黒さんが勤務する東京ミッドタウン店は、“国内最高峰のコーヒー体験”をかなえることをコンセプトにした「スターバックス リザーブバー」を持つ、日本で2軒目の店舗だ。17年5月のオープンにあたっては、全国からブラックエプロンバリスタを公募。選抜された意欲の高いパートナーがそろっている。一番遠方から来たアルバイトのパートナーは、大阪から東京に引っ越してきたというから、コーヒーにかける情熱は皆、並々ならぬものがある。
実は、石黒さんがアンバサダーカップに挑戦したのは3回目。3回目の出場でバリスタのトップの座を勝ち取った裏には、そんな意欲的なパートナーたちと切磋琢磨(せっさたくま)してきた日々があった。
「大会の1カ月半前くらいからトレーニングを始めましたが、『今日もテイスティングができる!』とワクワクして朝起きるぐらい、本当にコーヒーが好き。優勝を狙っていたというより、コーヒーと向き合っていると自然とこうなって。コーヒーをいれること、紹介することで、目の前のお客さまがもっとコーヒーを好きになる。そんな表現ができる仕事がしたいです」
石黒さんの熱い思いが伝わる。
接客マニュアルは、存在しない
石黒さんが最初にスターバックスに入ったのは、調理学校に通っていた19歳のとき。卒業とともに都内の一流ホテルに就職し、スターバックスで磨いた笑顔と接客スキルが評価されてキッチンとレストランのホールをつなぐサービス部門に配属された。「ホテルでは、心地よい緊張感のある空間で、お客さまを敬い、伝統を重んじる素晴らしいサービスを学びました」と石黒さん。だがその一方で、スターバックスでのカスタマーサービスを振り返り、より心引かれるようになったという。「スターバックスであれば、オーナーシップを持って、もっと素直に“お客さまを喜ばせたい”という気持ちと行動を表現できると思ったんです」。2年でホテルを退職し、スターバックスに戻ることを決める。
「オーナーシップを持って働ける」。パートナーたちが、スターバックスの魅力として挙げるのがこの言葉だ。スターバックスには、接客マニュアルが存在しない。どんな接客をするべきか、パートナーたちがそれぞれ自分で考えて責任を持って行動する。
「オーナーシップというのは、仕事を楽しんでこそ醸成されると思うんです」と言うのは、人事の荻野さん。「自分事として没頭してはじめて、仕事は楽しいと感じるもの。オーナーシップが生まれることで、パートナーは仕事から充実感が得られるし、お客さまにスターバックスの提供価値をお届けできるチャンスも増える。経営面から見ても、こういうマインドセットで仕事をしているパートナーの集団であれば、パフォーマンスは当然高くなります」
現在東京ミッドタウン店の時間帯責任者を任されている石黒さん。目下、楽しみにしているのは、2019年2月に東京・中目黒にオープン予定の、ロースタリーを併設した新業態の店舗で働く機会を得ることだ。
東京ミッドタウン店のストアマネージャーの北森晴香さんは石黒さんの接客を「目の前にいるお客さまがスターバックスでどういう体験を望んでいるのか、一瞬で察して、コーヒーの世界に誘(いざな)うことができる。1度会っただけのお客さまをファンにしてしまうことができるんです」と評価する。「石黒さんのように『コーヒーを極めたい』というパートナーにも、活躍の場が広がっていて、当店のようなリザーブバーや、ロースタリーなど、より多様な働き方ができるようになってきました」
大事なのは、パートナーの一人一人がどんな働き方を望んでいるのか。お客さまの満足の前に、働く側が充実感を持ち、幸せでなければいけない。「仕事が楽しくなければ、人生は楽しくない」。「人が辞めない」スターバックスの基本にある考え方だ。
「仕事に臨む姿勢」を、長時間かけて研修
接客マニュアルのないスターバックスだが、「Our Mission and Values」(以下、ミッション&バリューズ)と呼ばれる企業理念と行動指針が同社の目指すサービスのよりどころとなっている。パートナーは入社するとすぐに、同社の理念や価値観を理解するため、全員が約40時間におよぶ研修を受ける。現在は動画を導入するなどしてこの時間に短縮されたが、以前は80時間を費やしていた。会社や上司から言われたことに従うだけではなく、「仕事を通して自分がどうなりたいのか」「スターバックスでどんな経験がしたいのか」を考えて仕事に臨む姿勢を染み込ませることで、オーナーシップが培われていく。
OUR MISSION
人々の心を豊かで活力あるものにするために──ひとりのお客様、一杯のコーヒー、そしてひとつのコミュニティから
OUR VALUES
・私たちは、パートナー、コーヒー、お客様を中心とし、Valuesを日々体現します。
・お互いに心から認め合い、誰もが自分の居場所と感じられるような文化をつくります。
・勇気をもって行動し、現状に満足せず、新しい方法を追い求めます。スターバックスと私たちの成長のために。
・誠実に向き合い、威厳と尊敬をもって心を通わせる、その瞬間を大切にします。
・一人ひとりが全力を尽くし、最後まで結果に責任を持ちます。
・私たちは、人間らしさを大切にしながら、成長し続けます。
▼この方法で、自分で考えられる人が育成される!
バリスタ ⇒ シフトスーパーバイザー、アシスタントストアマネージャー ⇒ ストアマネージャー ⇒ ディストリクトマネージャー
アシスタントストアマネージャー全員がストアマネージャー候補。おのおのに合った育成計画を立て、「8時間半の本社トレーニングではあらためて自分を振り返り、『自分はどんな店づくりがしたいのか』を確かめます」(下青木さん)。
東京・大崎ブライトタワー店でストアマネージャーを務める及川彩さんは、大学1年生のときにスターバックスで人生初のアルバイトをスタート。その後、新卒で入社してから2018年で15年になる、正真正銘の生え抜きだ。その間、「スターバックスを辞める」という選択肢は及川さんの中にはなかった。
根底にはアルバイト時代のある思い出がある。01年に起きた米国同時多発テロの後、店舗にやってきたニューヨーク出身の常連客に「私も悲しい」と声をかけたところ、思いがけず非常に喜ばれた。「誰かの心に寄り添えることに、すごくやりがいを感じました」
及川さんの利他的なモチベーションは、当時も今も変わらない。3人の子どもの母親でもある及川さんは、17年から自主的に、子育て中のパートナーや、産休・育休中で仕事復帰に不安のあるパートナーらを集めた勉強会をスタート。座談会のような形でそれぞれ悩みや体験をシェアし、仕事復帰に対する不安材料を取り除くことを目的としている。参加者の対象エリアは南東京の約100店舗。「久しぶりにアルバイトをする主婦の方、社内では“チャレンジパートナー”と呼んでいる障がいのある方など、パートナーにもいろんな方がいますし、いろんなお客さまをお迎えします。一人一人がきちんと尊重され、その人らしく輝けるお手伝いをしたい。今は自分の店舗でできることを実践していき、将来的にはより大きな範囲でかかわっていきたいと考えています」
マニュアルがないスターバックスでは、皆が働きやすい職場を、全員でつくり出そうとする。大崎ブライトタワー店を管轄するディストリクトマネージャーの三宅洋平さんは言う。「根幹にあるのは、ミッション&バリューズの中の『威厳と尊敬をもって心を通わせる』という言葉。スターバックスが評価するのは、その人自身の行動。良いところは認め合い、自由に個性を発揮することができるのです」
米国本社からの方針の翻訳を、4カ月もんで完成
「すごく観念的な会社かもしれませんね」と人事の荻野さんは言う。
スターバックスのパートナーにとって、最初に染み込んだミッション&バリューズは、あらゆる場面で、すべてにおいて優先される。「たとえば経営会議で経費のかかる提案がされても、当社の場合、よりどころである理念と合致していれば、誰も反対しない。実行することを前提に、『じゃあ、その算段はどうつける?』という話になる(笑)。反対に、お金がかからなくても理念と異なる提案であれば突き返されます」
ミッション&バリューズは、会社を取りまく環境が大きく変わるタイミングで、その文言を少しずつ変えてきた。「日本では想定していたほど大きく影響はありませんでしたが、08年のリーマンショックを経て、米国でのビジネスが厳しくなったときに1度変わり、その後、14年にもう1度進化しています。米国本社が中心になり見直されるのですが、日本語訳に落とし込む作業が侃侃諤諤(かんかんがくがく)、大変なんですよ(笑)」
単純に翻訳するのではなく、「原文が言おうとしていることは何だろう?」という意味のすり合わせから始まり、それに日本語を乗せるとしたらどんな言葉にすれば伝わるのか、広報やマーケティング、人事や営業、各部署からプロジェクトメンバーとして10人ぐらいが集まって、3、4カ月かけて話し合った。さらに、全国のストアマネージャー1000人以上が集まる年1回の会議で、メンバー一人一人が言葉に託した思いをプレゼンした。「翻訳にかかわったメンバーたちが自分の言葉で話していくと、ストアマネージャーたちの心にもスッと入り込む。それがパートナー全体に伝わっていくのです」
たとえば、“Being Present”という文言を、日本では「その瞬間を大切にします」と訳している。「私たちはともすると、これまでのやり方を踏襲しがち。目の前の問題に向かい合っているようで、実は向かい合っていない。雑念を取り払って、今、目の前の課題に集中しようということを、随分話し合って盛り込んだ記憶がありますね」
まわりの環境が変われば、伝えるべきメッセージも変わる。パートナーの育成プログラムや評価の仕組みも、「今、解決すべき問題点は何か」を考えてアップデートしていく。14年に行った契約社員のほぼすべてを正社員化した取り組みも、「パートナーのライフステージの変化に、会社はどう対応していけるのか」を考えスターバックスとしての雇用のあり方を見直した結果だった。
この18年4月からは、正社員に支給してきた、保育園の費用を補助する手当をアルバイトまで対象とした。制度は画期的だが、経費は跳ね上がる。「予算のシミュレーションはしていますが、ミッションに照らし合わせて説明すると、経営メンバーの誰も何も言わなかった(笑)。当社では、お客さまの要望に合わせたドリンクのカスタマイズをパーソナライゼーションと言っていますが、パートナーに対する施策も発想はこれと同じなんです。3万6000人いたら、3万6000通りの人生がある。パートナーも一人一人が違う。働き方がより柔軟になることで、スターバックスで働くことが生活の豊かさにつながると感じてもらえるのだと思います」