部長となったのも執行役員に就いたのも、同社で「女性初」という冠がつく陶山さん。前身の安田火災海上保険に入社したのは男女雇用機会均等法が施行される7年前だ。昇進のたびに男性社会のドアノブを回してきた。
とりわけ男性社会を感じたのが54歳で部長に昇進したときだ。初めて出た部店長会議は200~300人入る会場で、事務局以外の女性は陶山さん一人。男性の数の多さに圧倒された。
「私だけメールが来ないなど、なかなかボーイズネットワークに入っていけませんでした。存在感がなかったんでしょうね。『あいつを外すと後で面倒だ』とか『あいつを仲間にしておいたほうが、この後うまく事が回る』といった存在感が」
それ以降、いかに自分の存在感を出すかに気を配り、社内のネットワーク構築にも力を入れた。
陶山さんのキャリアは38歳を境に2つの時代に分けられる。仕事と育児の両立を図った一般職時代と、仕事中心の総合職時代だ。総合職転換が遅かったのは育児に時間を割きたかったから。「子どもの10歳は二度と来ないけれど、自分の仕事は、30歳でやろうと思っていたことを38歳でもやれる」
もっとも入社した当時は、女性は一般職が当たり前で、陶山さんも一般職で入社し、保険の支払いを担当する部署に配属された。
「女性は男性をサポートするのが役割で、朝、出社するとみんなの机を拭いて、灰皿を取り換えて、お茶を出す。そんな時代でした」
キャリアを決定付けた最初の先輩
でも指導してくれた3年上の男性の先輩がよかった。「せっかく保険会社に入ったのだから約款くらい読めなければダメだよ」と言って、毎日その読み方を教えてくれたのだ。当時の一般職はそこまで要求されていなかった。
「先輩のおかげで保険会社とは何か、自分の仕事がどんな意味を持つのかがわかりました」
その後長いキャリアを積む陶山さんにとって、最初に指導してくれた先輩の存在は大きかった。
両立は「頑張りすぎない」がポリシー。一番大変なとき、子どもの面倒や家事を代わりにやってくれるお手伝いさんを頼んだのだ。
「当時は育休も時短もなかったので、週に2日、4時間ずつ来てもらっただけですが、気持ちに余裕ができ、先の計画を立てたり、仕事の勉強をしたりすることができました。今は社会のサポートが厚くなったので、女性にはどんどんチャレンジしてほしいですね」
子どもが小学校の高学年に上がったタイミングで総合職に挑戦。その年は忘れられぬ年にもなった。阪神淡路大震災が起き、保険金支払いを統括する部門にいた陶山さんは神戸と大阪に対策本部を立ち上げ、全国から応援の職員を集める大仕事を任されたのだ。
最初は本社にいながら、現地入りする職員の手配や宿泊場所の確保、対策本部に備えるヘルメットや安全靴などの配送手続き、さらにはスムーズな保険金支払いを実現する体制づくりを進めていたが、本社にいてはどうしても業務にスピード感が出ない。
「現地のお客さまに直接お話をうかがうのが私の仕事の原点だと思ったので、上司にお願いして行かせてもらいました。保険の意味を再確認できましたし、組織を動かす魅力も感じました」
その仕事も含め、総合職転換後の実績を買われて41歳で次席に抜てきされ、実質、保険金支払いの組織を動かしていくことになる。
「組織をどうしていくか考える立場。やりがいを感じました」
実績を上げるだけでは不十分だった
高いモチベーションで日々の仕事に取り組み、自分なりに良い仕事ができていると思っていた。ところが昇進では、後輩の男性3人に立て続けに抜かれてしまう。
「悔しかったですね。自分に不足があるとは思えず、なんで? 女性だから? と」
しかし自分の思い違いだった。課長に昇進してみるとはっきりと見えた。経験の厚みが足りず、人脈のつくり方にも問題があった。
「私は今の成績を出すことばかり考えていました。でも組織は目の前の数字だけでなく、5年先、10年先を見ながらメンバーを育成する視点も必要なんです。加えて、関連部署に対して、自分の部署の思いを伝えるだけでうまく調整しているつもりになっていましたが、その深さが足りませんでした」
次席で8年足止めされたが、課長となり医療保険の支払い部署をつくる仕事を託されたとき、次席時代の失敗が生きてくる。
「このときはメンバーの採用から携わりました。そして一人一人の個性を見ながら、5年後、10年後を考えた育成ができました」
当時の部下から課長になる者が何人も出てきた。メンバーの成長を見るのが何よりの喜びだ。
Q. 好きなことば
成功の反対は失敗ではなく、やらないこと(佐々木則夫)
Q. ストレス発散
イクババ(2歳の孫育て)
Q. 趣味
旅行、美術館めぐり
Q. 愛読書
『「夢とビジョン」を語る技術』(野口吉昭著)