物の怪にとらわれたかのような、怪しく激しい踊り。一方でノーブルさを漂わせる独特の世界観。彼らのダンスから、あなたは何を感じるだろうか? 日本のダンスシーンに革新をもたらし、世界から注目されるダンスカンパニー「DAZZLE」主宰、長谷川達也さんに話を聞いた。

「DAZZLE」主宰の長谷川達也さん。衣装協力MUBAC (ムバク)

「ストリートダンス」という言葉に、皆さんは何を想像するだろうか。

おそらく多くの人がヒップホップを踊る若い男のコたちを想像するのではないだろうか。私もそれを想像していた。初めて彼らのダンスを見るまでは。

「DAZZLE」――そのグループ名は“惑わす”“幻覚させる”という意味がある。ある人から「とにかく彼らの舞台を一度ご覧になってください。ストリートダンスの定義が変わりますから」と薦められ、初めて観たのが彼らの代表作『花ト囮(おとり)』だった。

「DAZZLE」の代表作『花ト囮(おとり)』から。彼らのダンスは、物語の上に構成されている。ときには台詞が、舞台演出として使われることも。作品は、ダンスというより総合的な舞台芸術を観るようだ。

なんだこれは。まさに幻想の世界。一瞬で日本古来の民話の世界に引きずり込まれた。「キツネの嫁入り」をモチーフに、独創的なダンスが息をつく間もなく繰り広げられる。

赤と黒の光。白装束の人々。怪しさ。哀しさ。舞台はそれらと音楽とが渾然一体となって、激しく美しく、計算されつくしたダンスと調和する。幽玄で物語性のあるステージ。それがダンスカンパニーDAZZLEの真骨頂だ。

DAZZLEは主宰の長谷川達也を中心に、8人の主軸メンバーで構成される。彼らは、いったいどのようにしてこの舞台を作り上げるようになったのか。リーダーとしてカンパニーを牽引し、構成や演出、振り付けを手掛ける長谷川に、まずはその出自を聞くことにしよう。

ファンタジーと和の融合――DAZZLE独自の世界観

177センチ、60キロ。スレンダーな肢体せいか、その佇まいの静けさからか、長谷川達也はストリートダンサーというよりも、どちらかといえばクラシックバレエの踊り手を彷彿とさせる。

「DAZZLEは大学のダンスサークルで出会った仲間なんです。1996年に結成しました。僕らの共通の思いはストリートダンスのグループとして一目置かれることでした。当時、注目されていたストリートダンサーは、ワルそうな人ばかり(笑)。結成が遅かった僕らは、そんな彼らの中から、どう抜きん出るかを考えました。独自性をどう出すのか、足りない技術をどう補うのか。音楽、衣装、照明、空間演出……いろんな要素が必要でした」

DAZZLEのメンバー8名。ファンのためのイラン海外公演報告会からのひとコマ。センターの長谷川を中心に、手前中央左から時計回りに、宮川、飯塚、南雲、渡邉、高田、荒井、金田(敬称略)。

幸い、集まった8人は、得意とする分野がそれぞれにあった。

「例えば僕が原案を作り、演出をする。飯塚浩一郎は脚本、映像、衣装などのプロデュース力に長けている。荒井信治と高田秀文は舞台のセットを組むことができ、宮川一彦、金田健宏、南雲篤史、渡邉勇樹はWebや宣伝、グッズなどを担っています。必要なことはその都度、メンバーで補い合っているんです。そして僕をはじめメンバー全員が、振付師でもあるんです」

当初から長谷川が心掛けたのは「他のグループが選ばない題材を選ぶ」ことだったと言う。

「ダンスのストーリーを作るとき、映画、漫画、ゲームといった違う文化の要素を絡めていきました。僕には根源的にファンタジーとか非現実の世界に対する憧れがあるんです」

『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』。長谷川が子どもの頃から親しんだゲームの幻想的な世界と、日本の伝説や古典とが融合する。長谷川の書く怪しくもはかない世界が根底にあり、それがまさに、DAZZLEのダンスが異彩を放っている理由とも言えるだろう。

「目標はストリートダンスの登竜門、ダンスディライトというコンテストでした。そこで認められるのに5年はかかりましたね」。2001年のダンスディライトで準優勝。目標は達成したが、その後もひたすら表現の模索を続けた。

2007年に舞台活動を開始。それから今に至るまでは、DAZZLEが開花するきっかけになった人々との、大いなる出会いに満ちていた。

「何に向かって踊るのか?」坂東玉三郎の教え

ストリートダンスというより、コンテンポラリーダンスのような指先に至るまで繊細な動きが特徴的。長谷川が動くと、公園が突如、不思議な時空に迷い混んだかのような感覚に陥った。

2009年、長谷川達也はあるダンスイベントで新体操とダンスを融合させた画期的なグループと出会う。後に「BLUE TOKYO」となる、私立青森山田高校の男子新体操チームだ。

「彼らの目指す新体操とはウマが合うんじゃないか、と思ったんです」。彼の勘は正しかった。翌年、BLUE TOKYOが結成された時、長谷川は振り付けを担当することになる。そのつながりは、その後さらなる出会いを広げた。

「2014年の国際芸術祭『アースセレブレーション』に出演した、BLUE TOKYOへの振り付けがきっかけで、我々DAZZLEもそこで踊れることになりました。そこで、太鼓芸能集団『鼓童』との共演が実現したんです」

鼓童との共演をきっかけに、長谷川はここでも、新たな運命の糸をたぐり寄せる。アースセレブレーションにプロデューサーとして関わり、鼓童の芸術監督でもあった、坂東玉三郎の目に止まったのだ。

「玉三郎さんには最初に『花ト囮(おとり)』のDVDをお渡ししました。そうしたら『面白いから、他にも見せてください』と言ってくださって。作品を全部ご覧になった後で『皆さん、クラシックに興味はある?』と」

歌舞伎の大御所、玉三郎がストリートダンスのDAZZLE をプロデュースする。このニュースは世間を驚かせた。

坂東玉三郎プロデュースの『バラーレ』より。「DAZZLEの斬新なパフォーマンスとの出会いから、新しい表現の可能性を感じた」と、玉三郎はあえてクラシックを選曲。DAZZLEの踊りに変化をもたらした。(TBS主催「バラーレ」2015 写真:岡本隆史)

「玉三郎さんから学んだことは計り知れません。『己に向けて踊るのか。他人に向けて踊るのか。もっと大きなものに向けて踊るのか。それを踊りながら切り替えていくんです』。そう言われて、踊ることの意識が変わりました。『皆さんはもっと外に向けて踊っていかないと』とも言ってくださって、いかに僕たちが内向的に踊っていたか、ということに気が付いたんです。目線、胸の開きなど、自ら示してもくださいました」

2014年、DAZZLEは玉三郎プロデュースによる『バラーレ』を世に出した。クラシック音楽に合わせた、ストリートダンスの群舞。それは彼らが初めて描いた世界で、どこかデカダンスのにおいのする洋風なダンディズムと、気品に満ちた舞台だった。

「まさか、玉三郎さんに演出をして頂けるとは思ってもいませんでした。いろんな人たちに、あれから踊りが変わった、と言われますね」

2015年、『バラーレ』の舞台が終わり、長谷川は初めてクラシックバレエのレッスンに通うようになった。彼自身、そしてDAZZLEが世界に向けて更に飛躍を始めたのだ。

森 綾(もり・あや)
大阪府大阪市生まれ。スポーツニッポン新聞大阪本社の新聞記者を経てFM802開局時の編成・広報・宣伝のプロデュースを手がける。92年に上京して独立、女性誌を中心にルポ、エッセイ、コラムなどを多数連載。俳優、タレント、作家、アスリート、経営者など様々な分野で活躍する著名人、のべ2000人以上のインタビュー経験をもつ。著書には女性の生き方に関するものが多い。近著は『一流の女(ひと)が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など。http://moriaya.jimdo.com/

ヒダキトモコ
写真家、日本舞台写真家協会会員。幼少期を米国ボストンで過ごす。会社員を経て写真家に転身。現在各種雑誌で表紙・グラビアを撮影中。各種舞台・音楽祭のオフィシャルカメラマン、CD/DVDジャケット写真、アーティスト写真等を担当。また企業広告、ビジネスパーソンの撮影も多数。好きなたべものはお寿司。http://hidaki.weebly.com/