難関私大で国際関係法を学び、留学も経験したという伊藤未悠さん。しかし、待ち受けていたのは“就職氷河期”。就活に挫折し、アルバイトや派遣先を転々……やっと見つけた「自分が納得できる仕事」とは――。
遠回りして見つけた、自分が本当にやりたい仕事
●伊藤未悠さん(仮名)42歳
「もともと何をしたいのかもわからなかった。今思えば、ただの世間知らずだったんでしょうね」
難関私大で国際関係法を学び、アメリカへも留学。マスコミを狙い就活を始めたが、まさに“就職氷河期”が待ち受けていた。過酷な就活で勝ち残るにはいかに自己PRするかを問われるが、いきなりつまずいた。
漠然と憧れて目指した大手出版社には軒並み振られ、ならばアパレルのプレスもいいかと軽い気持ちで受けてみたが、あえなく撃沈。最終まで粘った第1志望の会社も落ちたとき、「心が折れて、就活から逃げてしまい……」と伊藤さんは振り返る。
とりあえず編集プロダクションへもぐりこみ、アシスタントを務める。編集作業は楽しかったが、月十数万円のバイト代では生活も苦しく、2年で辞めた。もはや東京にいる意味もない気がして、大阪の実家へ帰郷。今度は好きなデザインやイラストを描きたいと一念発起、「美大へ行く!」と宣言して受験勉強したが、それも不合格に終わった。
「親が自営業なので、私もあまり会社員になることに現実味がなかった。むしろ、フリーでできる仕事をしたいと思うようになったんです」
アルバイトや派遣先を転々としながら、さまざまな仕事に挑戦してみた。生花の卸売市場、広告代理店、大学の事務……そこで自分は何が得意で、何が苦手かもわかっていく。
さらに転機となったのは、自営業の父親が倒れたこと。実家暮らしの甘えがあった伊藤さんも、いよいよ本気で働かなければと思い、印刷会社へ正社員として就職。印刷物の企画制作から営業まで任され、一つの仕事をやり遂げる責任と面白さを経験する。3年勤めたところで、東京の友人から誘いを受けたのが大手出版社の編集職だった。
30代初めに再び上京。契約社員という待遇でも年俸は高く、かつて志望した仕事だけにやりがいはある。やがて雑誌の編集部へ異動になり、ファッションやアート、サブカルチャーなど、華やかな流行を先取りする現場にいる高揚感もあった。
「でも、このまま続けてもしょうがないかなと思い始めたんです。50代になっても、この仕事をしている自分を想像できなかった。だから、次に進もうと、思いきって辞めました」
ちょうど40歳になる頃だった。フリーのライターとなり、自分で出版社を訪ねたり、友人からの紹介で少しずつ仕事を受けている。安定した収入があるわけではなく、ゼロの月に泣くことも。年収はほぼ半減したが、「後悔はない」と晴れやかに言う。
「フリーになって大きいのは、自分の責任で価値判断できるようになったこと。所属する会社や組織に左右されず、自分が納得してできる仕事を選べるのは幸せですね」
大手出版社にいたときは、そこで働く女性たちのつらさも肌で感じた。高学歴で志を持ってマスコミに入っても、組織の歯車として課せられた仕事に追われ、競争社会で疲弊していくように見える。買い物依存症やうつ病に陥る人も少なくなかった。
「私はいわゆる“富裕女子”をすごく近くで見てきた“貧困女子”なんです。どちらが良い悪いじゃないけど、私は普通の感覚を忘れたくないし、人と競うのも好きじゃない。お金がないと言いながらも、今の生き方は心地いいんでしょうね」
遠回りしたようでも、本当にやりたいことを見つけるために時間が必要だった。出会った友人たちは、派遣から次の目標に向けて頑張っている人、正社員の職を離れて大学院で学び直す人もいる。世の中にはいろんな生き方があり、未知の世界が広がっている――その好奇心を満たしてくれるからこそ、自分は今の仕事を選んだのかも、と伊藤さんは思う。