一億総活躍時代……いや、一億総「輝け!」とピカピカ輝くことを命じられているようなこれからの日本において、“需要のある女”“欲しがられる女性像”とは?

「需要がある女」とは?

需要がある女、なんて言うと「胸が」とか「脚が」とか、「平均よりちょっと上の顔面偏差値55くらいが」とか「やっぱり癒し感が」とかの話になりがちだが、そういう話ではない。断じてない。

一億総活躍時代、“需要がある女”とは?

一億総活躍時代……というよりはむしろ、「一億総“輝け”!」とホタルイカ並みにピカピカすることを女性が要請されているこの現代、人材として需要がある女性は、“とあること”ができる女なのである。

私の最近のプレイリストから外せない曲に、キュウソネコカミという若い(私に比べて、の話)男子バンドの『かわいいだけ』という隠れた名曲がある。なんでもかんでも「かわいい~」「うん、かわいいよね~」「超かわいい~」とうなずきあうだけで、まったく議論の進展や付加価値を生まないスカスカの会話をお洒落カフェで繰り広げる一方で、お金のある男や有名人の男にちやほやされ、他人の金で遊ぶのをよしとして男を渡り歩く、20代の外見の整った女子たち。

キュウソネコカミのアルバム『チェンジ ザ ワールド』2曲目の「カワイイだけ」は、すべての“自称女子”必聴の曲だ

そんな過去も現在も未来も永遠に存在するであろう、ある意味で伝統的なタイプの女子たちを相手に「かわいいは作れるけど、それ以外きみは作れない」「三十路過ぎたら需要なんてないぞ」とバッサリ斬りながらも、そういう外見(そとみ)のいい女子に結局は外見だけで惹かれてしまう自分たち男子のサガを嘆いた曲だ。外見の良し悪しは置いておいて、20代と言わずすべての“自称女子”必聴、その後反省文を1200字で提出すべし、と心の涙を流しながら電車内で聴いている。

「かわいい~!」を繰り返す高度なコミュニケーション

さて、私はこう見えてなかなかの乙女体質(多難な社会適応の結果である)なので、スイッチを一旦オフにすると、そういうスカスカの会話を続けることが意外と苦じゃなかったりする。もはや「かわいい」という言語的記号を繰り返すだけで一見何も新しいものを創出していないようだが、不可視レベルではその場の空気とキブンを共有する一体感が生まれ、共感がお互いの存在承認を生むという高度なコミュニケーション習慣。

先日、犬には人間が見ることのできない磁場が見えているのではないかという海外研究が少し話題になっていたが、私は女子も多かれ少なかれ、男には見えない磁場が見えているのではないかと思っている。分かっているようで分かっていない、そう見えて分かっている……このフワフワと捉えどころがなく総論OK(実は各論では色々あって、みんな根に持っているようだが)で進んで行く人間関係を思うと、女性は確かに感覚的なコミュニケーションを得意とする生き物だと言える。

「私、中身はオヤジなので」と一部の女性が言う理由

ところが、年代問わず男性社会型キャリアライフでの戦闘歴が長いタイプの女性と話をすると、時折おやっと思う共通点がある。素で男子生徒と間違われる少女時代を歩んだゴツい私から見れば折れそうなほど華奢で小さくて可憐な女性なのに、「私、中身は男なので」「オヤジですから」と言う。誰も聞いていないのにわざわざ教えてくれるあたり、“言う”より“言い張る”、結界を張る行為に近いものが感じられ、それは女性的な極に近い座標から始まった男性社会への適応の結果なのだろうと思わされるのだ。たくましい元・演劇部男役の私が(不本意ながら)男性側に寄った座標から社会適応して、自分を「中身は乙女だ」「繊細なんだ」と言い張るのと同根なのではないかと推察し、彼女たちの道のりの苦労に思いをはせるのである。

「中身はオヤジですから」とはつまり「女だと思ってなめんなよ、一人前の職業人としてちゃんと尊重しろよ」という意味であり、逆に「中身は乙女だ」にはつまり「頑丈そうに見えますが、あまり粗雑に扱うと意外ともろいこともあるので、ほんの少しだけ丁寧に扱っていただけると大変助かります」という言外の意味が隠されている。つまり、自分が本来位置しているポジションから導かれがちな一般判断への否定を言外に示唆しているのだ。

本来は可憐なキャリア女性たちが自分を「オヤジですから」と言う背景には、それぞれに個人的な戦史、蓄積がある。男性社会適応の結果であると言った通り、彼女たちは自分を女性側から男性側に寄せて頑張ってきた。女性側の価値観や視点から、男性社会を観察し理解してきたことで、彼女たちは女性が男性と同じ空間で共存するための話法、文法を自覚的に身につけているのだ。

べつにゴツいわけでもないキャリア女性たちが自分を「オヤジですから」と言う背景には、それぞれの歴史があるのだ。

例えば自分の感じているふわっとした「共感」「感情」などの感覚を言語化し、場合によっては説得力を与えるために数値化する。相手の思考のクセに合わせて、男性が好むスポーツや戦国武将や幕末に例えて話を進め、女性的な「共感」でなく男性的な「理解」を引き出す。男性同僚や上司、部下へ意思を明瞭に伝達し、指示を間違いなく伝える訓練を日々繰り返していると、論理的に思考して話すことが苦でなくなり、当然となる。その男女のブリッジ的な役割をこなせる自覚と自負が、「(外見は女ですけど中身は)オヤジですから」と表現されているのだ。

“通訳業”のできる女性は重宝される

「一億総“輝け”時代」の到来と社会的な多様性の受容が進むことで、同じ職場という空間に、男女や異なる年代、異なる国籍や言語、異なる価値観を持つもの同士が共存する環境が普通となる(これまでそうでなかったことの異常性は、今回はさておく)。語学的な通訳だけでなく、自分の持つ話法や作法を相手のそれと客観的に比較して研究し、戦略的に相手側へ寄せて伝える“通訳業”のできる女性は、職場だけでなく地域でも家庭でも需要が途切れることがないだろう。

男も女も老いも若きも、これからは「かわいいだけ」や「仕事ができるだけ」では、「それだけ? そのリソースが尽きたら、ハイサヨウナラ」と言われてしまう時代がくる。さまざまな人たちが共存する世界において、立場の違う相手との通訳ができる人材は、「共感」や「理解」を取り付けながら、無限増殖するそれをリソースとして成長し、泳いでいくのだろう。

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。