1万3000人が参加する国際会議

コングレ 常務取締役 紫冨田 薫さん

コングレ設立後、私が担当してきたのは主に国際会議、医学会等の企画・営業・運営です。誘致から数えると長ければ7~8年かかる大きな会議もあり、各方面の関係者、スタッフと本当に苦楽をともにしたという一体感を分かち合えることが喜びです。

当社のスタート時点では、この業界に入ってまだ2年ですから、ベテランを補佐する役割がほとんどでした。

最初に経験した大規模な国際会議は、94年に横浜で開かれた第10回国際エイズ会議です。アジア初のエイズ会議で、参加者数約1万3000人の国際会議は、今年当社が担当した世界眼科学会の2万人という記録が出るまで20年以上超えるものがなかったほど大きな会議でした。

私は開催前年の93年に、準備を手伝うために東京へ長期出張を命じられました。結果として、そのまま東京でずっと勤務ということになりました。

社内の各チームを横断的にサポートする立場からはじまり、最終的には大きな予算の会計を任されました。閉会後半年ほどで、数年かけて準備した会議の決算を終わらせなければなりません。他の多くの担当者が、無事に運営業務から解放されたあとも、私と後輩はせっせと帳簿との戦いです。最後に公認会計士の監査でOKをいただいた時には、やっと肩の荷がおりた気持ちでした。

この準備期間に多くのことを学びました。エイズに関する一般知識がまだ不充分な時代ですから、「同じグラスを使うと感染する」などの誤った情報が出ないようにホテルや飲食店務向けの説明会も開催しました。これだけの規模になると関係者も幅広く、当時の厚生省、医療関係者、患者感染者の団体、開催地の神奈川県と横浜市の自治体、そのほかに社会学、心理学などの学識経験者もメンバーに加わって運営本部を編成し、数カ月間に渡り、直前期には会議室を借り切って知恵を出し合いました。

無事に閉会を迎えたときの達成感は相当なものでした。コンベンション・ビジネスの醍醐味を知った気がします。

業界、会社とともに成長する

私の仕事道具:ノート、電卓。この2つは会議のときは必携。記録を取ることと数字を意識することは、仕事の基本。規模の大きな国際会議の場合は何年も前から誘致を始めるため、10年カレンダーも欠かさず持ち歩く。

その後、担当する会議の規模は次第に大きくなり、企画、誘致、営業と責任範囲も広がりました。そこにはもちろん私自身のスキルアップもありますが、コングレ自体が業界のリーディングカンパニーへと成長してきたこともあります。さらにはコンベンション業界そのものが発展・注目されてきたことも大きく影響しています。

近年でいえば、アベノミクスの成長戦略に私たちの業界を示すMICE(マイス)も含まれています。Meeting(会議・研修・セミナー)、Incentive tour(報奨・招待旅行)、Convention/Conference(大会・学会・国際会議)、Exhibition(展示会)の頭文字をとった造語。

国際会議の企画運営からスタートしましたが、会議運営に必要なスタッフを採用・教育することから、博覧会の運営にも携わり、そのホスピタリティを活用して、科学館や水族館などの文化施設の運営へと事業内容が広がりました。そしてコンベンション施設の運営も行い、大阪に自前のコンベンションセンターを設立し地域への貢献も心掛けています。

コンベンション施設を作り、それを中心として街の再開発をはかる動きが全国であり、私自身も自治体からの依頼で、地元向けの説明会に出席したり、基本計画の策定に参画したりしています。冒頭で述べた「設計図の読み方」の勉強会が、私たちの仕事に今まさに活用できているのです。