延期も失敗も許されない仕事

コングレ 常務取締役 紫冨田 薫さん

大阪大学文学部を卒業後、就職したのは大阪に本社がある大手食品会社でした。1979年当時は男女雇用機会均等法もなく、4年生大学卒の女子は就職難。それでも地元大阪で就職できたのは幸運でした。

秘書室の仕事はやりがいもあり、会社全体に関わることも多いため、見聞も広がったと思います。楽しい職場でしたが、限界を感じ、数年勤めたあと転職を考えました。まだまだどの会社でも「女性は数年勤めて寿退社」という考えが一般的だった時代です。

このとき新聞の求人欄で見たのが大手コンベンション会社の関西支社。事業内容は「国際会議の運営」と書いてありました。

「国際会議の運営、そんな仕事があるんだ。これは経験が活かせるかもしれない」

秘書の仕事には、役員会議の手配や社外イベントのお手伝いもあります。

ところが、面接試験で大失敗。秘書時代の経験を堂々と述べたら、正面に座っていた関西支社長に「そんなものは何の役にも立たない!」と一喝されました。ああ、不合格だと諦めていたら、採用の連絡がありました。

30歳を過ぎてゼロからの出発です。実際に働きはじめてよくわかりました。コンベンション・ビジネスは、営業活動から受注までの取り組みがあり、事業計画を立て、予算を管理し、当日を迎える。コンベンションでは「延期」も「失敗」も許されません。つまり私は、初めてビジネスの世界を知ったのです。

関西支社長の隈崎守臣は会社のメインバンクから来ていました。過去にいくつもの会社で経営の立て直しを手がけ、この会社でも、その手腕で業績をあげ、後にコングレの社長となる人です。

まったく素人の私には、見るもの聞くものすべてが勉強でした。隈崎支社長の方針は「仕事を外注する場合でもまず自分でやってみろ」でした。その道のプロに頼むにしろ、自分が経験してみないと仕事のポイントや適切な頼み方がわからないという考え。この「まずは自分でやってみる」が本当に役立つことは後々わかってきました。

コングレ創業後の税務申告なども当初は自分たちで四苦八苦して申請書を作成していました。ある企業から自社の研修施設を建設するので、アドバイスが欲しいと頼まれたときも、建築の専門家を招き、設計図の読み方をみんなで教わりました。

創業直後のハラハラ体験

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紫冨田さんのキャリア年表

転職から1年半が過ぎたころ、有志が集まって理想の会社を作ろうということになり、90年7月、コングレはスタートします。当時の社員は約40人でしたが、顧客はゼロに近い状態。まずは仕事を取ってくるところからはじめました。

私は地元のある自治体に営業をかけました。「○○社の牙城」といわれるほど、競合他社が深く入り込んでいる自治体で、私がやっと取れた仕事は、市長が海外のプレゼンで配布する資料の翻訳でした。

プレゼンの原稿を翻訳して数百部の冊子を刷り、「完成しました!」と上司に見本を渡したときです。

「あれ、スペルが違うよ」

慌てて見ると表紙の文字に明らかな誤り!

すぐに連絡すると、自治体の担当者は絶句していました。まさか表紙に誤植とは想像もしなかったでしょう。中身は何度もチェックしていたのです。しかも、海外へ出発するまで時間がありません。

上司のとっさの判断で、大阪と京都の印刷会社に同じ修正の冊子を同時に頼むことにしました。早く刷り上がったほうを納品し、一方は無駄にしてもいいということです。

市長がプレゼンする国には、当時は関西から直行便がなく、担当者の方々は新幹線でいったん東京へ出る予定でした。依頼した2社のうち先に完成したのは京都の印刷会社。京都から新幹線で新大阪駅まで運んでもらい、東京行きのホームでお渡しするという段取りを組みました。まさに綱渡り。このとき新幹線のホームに自治体の偉い方々が見送りに来られると聞いて、社長にお詫びとご挨拶のために同行をお願いしました。

新大阪駅で印刷会社から段ボール箱を受け取ったとき、私はふと閃いて、コングレのロゴシールを目立つ場所にペタペタ貼りました。その箱を持って上りホームへ駆けつけました。

自治体の関係者たちは「あ、来た。間に合った!」と万歳しそうな歓迎ぶり。偉い方たちに社長を紹介し、コングレのロゴが目立つ箱を担当者に渡しました。

本来は私のチェック漏れであり、ハラハラする刷り直しでしたが、自治体の方々からは、責められるより逆に感謝され、新たな仕事の受注につながりました。

「紫冨田さん、まさか仕組んだのとちがうよね?」

自治体の担当者から後々冗談を言われたほど。私たちの会社が誕生して間もない頃の失敗談です。