ちっぽけな自分が楽しかった

BTジャパン 社長 吉田晴乃さん

30歳で日本を飛び出したんですが、海外生活が人生を変えました。

すごい開放的だったんですよ。自分にめぐり合ったっていうんですか。“ありの~ままの~”の世界ですね(笑)

バブルの申し子といわれる時代、恵まれた家庭環境で典型的な箱入り娘教育を受け、大学を卒業する寸前のところまではよかったんです。縁故でしか4大卒の女性は採ってもらえない時代ですから、大学4年の時に親の決めた某大企業に押し込んでもらいました。内定の知らせは父から聞き、母からは“ここでいい旦那さんを見つけて結婚するのよ”といわれ人生が終わったような気がしたのを覚えています。

私は3人姉妹の真ん中で、独立心が強く、個性的というか変わり者だったんですね。ミッション系女子高時代は落語研究会で“世間亭はばからず”なんて芸名つけて、いつも皆に囲まれて寄席のようなことをしては、笑わせてました。

幼いころから自己表現力にたけ、主張も人一倍。あの時代の女の子としてはありえないわが子の将来を案じた母は、私をなんとか矯正し、時代の定型にはめようと、大変な葛藤をしたんですが、それでも個性は成長とともにさらに強くなってくる。親は大変だったと思います。ところが大学を卒業する寸前に、私は病で倒れ、生死の境をさまよいました。運命の矯正力ってすごいですよね。内定も白紙で、ここからまさに「世間亭はばからず」な人生が展開しました。

1990年初期カナダ人と国際結婚をし、1歳になる愛娘を連れて、カナダに移住しました。公園デビューよろしく、カナダで初のママ友をさがして公園をさまよい歩くんですが、そこはだだっ広い森で、コヨーテがでてきました。これはどうも様子がちがう。この国ではママたちは子供を預けて仕事していたんですね。

郷に入りては郷に従えということで私も仕事をすることを決意し、カナダ国営の電話会社に勤めたわけなんです。

出勤初日の朝8時の光景は忘れられません。長いコートのポケットにハイヒールを突っ込み、スニーカーで足早に、ラージサイズのコーヒーカップをすすりながらオフィス街の高層ビルに吸い込まれていく女性たちの姿。“WOW ワオ……”確かにテレビか映画でこんなの見たな、と。

はじめた通信の営業がたまらなく面白かったんです。ちょうどカナダが通信規制を緩和し音声通話の自由競争を始めたころでした。日本人が多かったので日本向けに格安の電話プランをつくろうと思い、会社に交渉してサービスをはじめたのですが、これが大ヒットしてあっという間にマーケットを制覇しました。日本人旅行客用のテレカを販売したり、やることなすこと当たるっていうのはこういうことを言うのだと思います。通信営業の面白さにはまり、病みつきになっていました。

さらに大きな市場めざし娘と2人、シングルマザーでビッグアップルNYへ渡りました。NTTがアメリカでの事業を立ち上げる際にお声がけいただいたのですが、本当によくぞ私を見つけてくださったと今でも感謝しています。

当時のアメリカの勢いといったら想像を絶していました。1990年後半から2000年前半のアメリカはITバブルのピーク時で、シスコだ、マイクロソフトだとシリコンバレー発IT企業が怒涛のごとく市場を制覇していく、何がなんだかわからないようなことになっていました。

日本から見ていた世界の大きさと体感したスケールの差。ただただ驚愕とでもいうんでしょうか。NYの高層ビルの受付で「NTTの吉田です」といっても「AT&T?」なんていわれてしまう始末。こっちは「世界のNTTだ」くらいの勢いでいってましたからショックでした。

厳寒ビッグアップルの摩天楼を見上げ、自分のちっぽけさを嘆きながらも、妙なハングリー精神が湧いてくる、アメリカンドリームマジックにかかっていくわけです。

子どもが悲しむことが一番つらい

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吉田さんのキャリア年表

自分のキャリアが大きく開けていくその裏で、ちいさな娘にかけた負担も半端なく大きかったです。

私にはNYに親戚も友人もいませんでした。ベビーシッターに預けて仕事に行くのですが、東海岸から西海岸まで全米をフィールドにしていたので、東京・大阪間を出張するのとはわけが違います。泊りがけの出張のときは娘が本当に嫌がりました。すごく寂しい気持ちだったと思います。今でも「母の日は嫌いだった」と話すことがあります。

大事なミーティングがあれば、娘が風邪をひこうが振り切って出勤しました。週末のゴルフも断りませんでした。ある朝、娘の体調が悪かったので、ベビーシッターに医者に連れて行ってくれるように頼み、出勤しました。娘が医者で診てもらって帰る途中、偶然にも街中で私と出会ってしまったのです。娘は必死で私のほうに手を差し伸べました。でも私は顔を伏せ、娘の前を黙って走り抜けるしかありませんでした。

幸か不幸か自分で稼がなくては食べていけないシングルマザーには、それ以外の選択がありません。だから続いたんだと思います。もしも頼れる夫がいたら、とっくにギブアップしてしまっていただろうと思います。

母親にとって、子どもが幸せでないのが一番堪えます。社会で「女性だから」とアンフェアに扱われるくらい、どうということはありませんでした。そんなの逆にエネルギーにしていました(笑)本当にしびれたのは子供のこと。心の底から娘たちの時代には私のような選択はさせたくないと思いました。

コンペなんてしている場合じゃない!

自分のキャリアを根底から見直す事件が9.11のNY同時多発テロです。あの日、通信インフラはめちゃくちゃになりました。NYの街にサイレンが鳴り響く中、「ガレキの下に残された人が助けを求めています。無事な人は携帯電話を使わないでください」とアナウンスがありました。

私たちが提供している通信インフラとは何かを本当に考えさせられました。通信って本当の意味でライフラインなんだ。「サービスを売る」なんて代物ではないのではないか。ITバブルにのぼせてコンペに没頭している場合ではないのではないか。

音をたて崩れ去るトレードセンターとITバブル。完全崩壊したNYの通信インフラの復興にあけくれた数カ月の自問自答が、新たな転機をもたらしました。この海外での10年以上の経験を絶対に日本に帰って伝えなければいけないと思いました。日本に戻ってからは、世界の通信インフラはどうなっていかなければならないかとか、日本のようなテクノロジー大国のミッションとか。日本に帰ってからはそんな寄席にあけくれていました。