OLとして働き、資金を貯める

JALエクスプレス 藤 明里さん

アメリカではパイロットになるためのプロセスが日本と違って、小型機の免許を取得後にインストラクターとしての経験を積み、次に航空会社に雇用されて50~100人の飛行機を操縦する――とステップアップしていく形です。ただ、私の場合は紆余曲折があって、インストラクターのライセンスを取ろうという頃に貯金が尽き、日本に戻らなければならなくなったんですけどね。

帰国後は家電メーカーの契約社員として働き、ライセンスを続けて取得するための資金を貯めました。新聞社のヘリコプターなどを操縦している女性パイロットに話を聞きに行って、アドバイスを貰ったのもこの時期です。

そんな中、JALの子会社としてJALエクスプレスが創設され、パイロットの募集があることを知ったのは1998年のことでした。

入社試験を受けた日は、「このチャンスを逃すわけにはいかない」と本当に緊張しました。JALグループが航空大学校や自社養成以外の人材にも門戸を広げた初めての採用だったので、コツコツやっている間についに門が開いた、これが日本でのエアラインに就職できる最後のチャンスかもしれない、という思いで申し込んだからです。

きちんと仕事をしていれば、偏見もなくなるはず

面接ではまず「子どもができたらどうしますか」なんて聞かれましてね。「結婚もしてないのに子どもの話ですか?」と思わず聞き返しちゃいました。役員の人が「子どもができたりするといろいろねえ……」なんて言葉を濁しているので、「もちろん子どもができても仕事はします」とはっきり答えたことを覚えています。

私は女性パイロットとしては社内2人目の採用でした。面接のやり取りからもわかるとおり、当時の航空会社はやはり男社会で、「女性パイロット」というだけで面白くなさそうに振る舞う人、感情的になる人もいたものです。

でもそれはただの感情の問題であって、自分の人生には影響のないことなんだ、って割り切っていました。私がきちんと仕事をしていけば、そうした感情もそのうち収まるだろう、と。それに副操縦士として働いていると、上司(機長)というのはフライトの度に替わるんですよ。そりの合わない上司とずっと顔を合わせていなくて済むのは、この仕事の気が楽なところなんです(笑)。

そもそも飛行機の操縦が「男の仕事」であったのは、それが体力勝負の仕事だったからだと思います。昔の飛行機は操縦桿もすごく重かったので、なかなか女性が職業として就くという現実的なイメージが持てなかったのでしょう。

その時代の余韻がまだあるので、会社は未だに「男の雇用」「女の雇用」を分けて考えているところがあるし、男性の中に女性の進出を面白くないと思う人がいる一方、女性の側にも「女だから仕方ない」と諦めの気持ちを持っている人がいる。

でも、技術が進化した今、飛行機の操縦に力は必要なくなりました。パイロットは女性でも十分になれる職業になったわけです。

その意味で私が入社した頃から現在にかけて、この仕事は女性進出の過渡期にあるのだと私は思うんです。だからこの10年のあいだ、とくに心がけてきたのは、「諦めなければ、パイロットって女性でもなれるんだよ」というメッセージを、自分自身が実例となることで発することだったようにも感じます。

「女で大丈夫なのか」という視線のなかでの出発

女性が職場に少ないと、何かミスがあれば必ず目立ってしまうし、「これだから女は」という視線で見られてしまう業種はまだまだ多いでしょう。私が機長になった3年前も、国内では前例がないので「女で大丈夫なのか」という声と視線の中で仕事が始まりました。そうした視線の中で認められるためには、周りの誰かに助けてと言う前に、自分がその仕事をこなせることを自分自身で証明するしかありませんでした。

でも、振り返ればこの10年間で、会社の雰囲気もずいぶんと変化してきています。日本では女性機長の数が国際的に見ればまだまだ少ないですが、それでも徐々に増えてきています。

その過渡期に当たった私たちが当たり前のように仕事をこなしていれば、女性が機長をしていることが、いずれ当然のこととして受け止められるようになるはずです。

そうすれば次にパイロットになろうとする女性たちが、きっと増えていくでしょう。社会での男女の意識は、そんな風にして徐々に変えいくしかないのだと思っています。

●手放せない仕事道具
副操縦士時代は右半身を日焼けし、機長になった今は左半身に紫外線を浴びる。日焼け止めは欠かせないアイテムだ。

●ストレス発散法
海外の航空会社でパイロットをしている夫とFaceTimeで話すこと。飲みながら愚痴を言うこともある。

●好きな言葉
神様は、乗り越えられる試練しかその人には与えない

藤 明里(ふじ・あり)
1968年、東京都出身。国内の大学を卒業後、アメリカで操縦免許を取得。派遣社員として働きながら資金を貯め、採用の機会を待った。1999年、JALエクスプレス入社、2000年より副操縦士として活躍。10年、日本で初めての旅客機の女性機長となる。