「やっぱり女性は」と言われたくなかった

野村ホールディングス 執行役員 経営企画担当 鳥海(真保)智絵さん

野村證券に入社したのはバブル景気の只中だった89年のこと。株式関連部門に配属されて、日本企業が発行した新株予約権を自己勘定でトレーディングする仕事を担当しました。日々早朝に出社、ロンドン市場で午前の取引が終わる午後9時頃までは一瞬も気が抜けません。1日に10億円単位の損益が出ることもあるほどの売買ですから、いったん取引がはじまったらトイレに行く暇もないほど。

本当に忙しくて辛く、「自分はいったい何をやってるんだろう」という疑問がわいて、何度も会社を辞めようと思いました。また、先のキャリアが見えないと感じたこともあります。当時、職場の配属はあくまで人事部が決めるという認識でしたから、自分ではどうすることもできません。それならいっそ、転職して自分でキャリアを決めていくのも1つの道だと思ったこともあります。

89年の入社当時は、女性総合職が凄く少なかったので、いま振り返ればずいぶん肩肘を張っていたと思います。それが数年で辞めてしまえば、「やっぱり女性はダメだ」と言われるのではないかと思い、踏みとどまりました。

短期間に専門性を高める

5年半のトレーダー生活が終わったあと、米スタンフォード大学に2年間留学し、96年に結婚する夫と知り合いました。帰国後は投資銀行部門に配属されましたが、その後、人事異動でマーケット関連と投資銀行のビジネスを2往復し、そのほかの部署も経験するという、社内でも珍しいキャリアパスを歩みました。

新しい職場に移ると、初めのうちはどうしても専門性で周囲に劣ってしまいます。そこで短い期間に集中して勉強し、その仕事でベテランの同僚たちにキャッチアップする必要がありました。その分野の法律にしろ、会計にしろ、経験不足は勉強で補うしかありませんでした。

本を買い込んで、朝、出勤前にコーヒーショップに寄って勉強していた時期もあります。そうやって異動のたびに、新しい知識やノウハウを短期間で身につけようと努力してきました。

「オレについてこい」のリーダーシップ

私の仕事道具:消えるボールペン「フリクションボール」を愛用。緊急&大事なことは赤で。予定が変わっても消せるので手帳用に重宝している。

課長に昇進したのは2001年で、周りの同世代に比べて早いとはいえませんでした。管理職をめざして頑張ったわけでなく、役職やタイトルへのこだわりはありませんでした。ただ、自分の仕事が認められたことはうれしかったですね。その結果として、昇進がついてきたという受け止め方です。

管理職になって難しいと感じたのは、組織力を活かす方法です。これは複数の上司から指摘されましたが、私は仕事を抱え込んでしまい、何でも自分ひとりで解決しようとするきらいがありした。周囲を巻き込むことがあまり得意ではありませんでした。

当時のリーダーシップのスタイルは「オレの背中についてこい」型でしょうか。背中を見て学んでねというスタイルです。もともとは男性的な職場環境で、細かく指示しない風土で育ったせいもあるでしょう。しかしそれだけでは組織の力を活かし切れませんし、部下の成長機会を奪うことにもなりかねません。

仕事を任せることは難しいものです。特に立場が上がってカバーする範囲が広がると、目が行き届かない「死角」が増えてきます。その死角まで自分で見ようとすれば無理が生じる。仕事を任せるときの秘訣は、この死角をどれだけ許容するかでしょう。