信長は長政の裏切りを信じられず
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)において浅井長政を演じているのは、中島歩さんです。長政は織田信長(小栗旬)の妹・お市(宮﨑あおい)の方を娶り、織田家と結んでいましたが、元亀元年(1570)、突如として信長に反旗を翻します。
『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)には、信長が長政裏切りの知らせを「虚説」として信じようとしなかったことが記されています。
信長としては、長政は縁者であるし、北近江の支配も任せているのだから、何の「不足」(不満)もあるはずはない、裏切るはずはないと信じ込んでいたのです。信長が長政の裏切りを「まさか」と思ったように、現代においても歴史家は長政の離反について確固とした説を提示できていません。
長政謀反の理由はいまだに不明
越前国の朝倉氏(義景)との同盟を重視したからではないかという説(しかし同説は、浅井氏と朝倉氏は累代の深い関係になかったとして現在は疑問視されています)。信長から課せられる絶え間なき軍役・動員に浅井氏が疲弊したからではないかという説(同説も浅井氏は信長からそれ程、過重な軍役を課せられてはいないとして疑問が出されています)。このように長政の裏切りについて定説はないのです。
長政は信長から離反した後、朝倉氏や比叡山延暦寺、または甲斐国の武田信玄などと連携し、信長を大いに苦しめることになります。信長は自らに刃向かった者に対する憎しみを募らせ、その恨みや憎しみを晴らそうとするところがあります。信長は前述したように「長政が裏切るはずはない」と信じていただけに、長政への恨みは倍増したと思われます。
秀吉は小谷城に入り中心を分断
信長を苦しめてきた浅井・朝倉ですが、天正元年(1573)についに最後の時を迎えます。同年8月、信長は軍勢を率いて越前国に攻め入り、ついに朝倉氏を滅亡させました。その後、信長はすぐに取って返し、浅井氏の本拠・小谷城を攻囲するのです。信長は8月26日、北近江の虎御前山に陣取ります。その翌日の夜には羽柴秀吉が小谷城の数ある城郭のひとつである「京極丸」を占拠しました。これにより、浅井久政(長政の父)の「小丸」と長政の「本丸」が分断されることになります。
父が自害、長政も信長に迫られ…
続いて小丸への攻撃が始まると、久政は自害して果てます。久政を介錯したのは、彼が長年目をかけていた舞の名手・鶴松大夫でした。鶴松大夫は久政の死を見届けると、自らも腹切って死んでいきました。久政の首を得た秀吉は、虎御前山に行き、信長に久政の首を届けます。
8月28日、信長はみずから京極丸に赴きます。そして浅井長政を自害させました。そして久政・長政親子の首は都に送られ、獄門に懸けられるのです。以上は『信長公記』が記す長政の最期です。
一方、江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した『信長記』にも、27日、秀吉が京極丸に攻め上り、浅井久政と長政父子の間を分断したことが記されています。翌日には久政の居城が攻められ、浅井方はことごとく誅伐されたとあります。ちなみに同書でも鶴松大夫が久政を介錯するのですが、鶴松大夫は追腹の時、久政と同じ座で死んでは恐れ多いとして、縁に出て腹切って果てたとあります。29日、信長は京極丸に上り、長政に腹を切らせたというのが『信長記』に見える長政の最後です。
信長は長政を許したという物語
浅井三代の興亡を記した軍記物語『浅井三代記』(江戸時代初期の成立。史料的価値は低い)には、小谷落城の直前、信長は不破河内守(光治)を呼んで、長政のもとに遣わしたとあります。信長は光治に「お前は案内を乞い長政のもとに行け。そして、数年に亘り、長政が一戦に及んだのも越前朝倉氏が要因である。朝倉義景は既に討ち取った。今は長政に遺恨はない。よって城を明け渡せと長政に伝えよ」と命じるのでした。信長は長政を助けようとしたという「異説」です。
光治は長政と対面、信長の意向を伝えます。長政は信長の想いに感謝しつつも、このような状況になったからには「討死を遂ぐべきなり」と死ぬ覚悟を伝えます。信長は「大和国を与えよう」とさらに長政に投降を勧誘しますが、長政はついに承引しませんでした。
長政は妻のお市の方と娘たちを信長方に送らせた後、織田軍兵を相手に獅子奮迅の働きをします。その後、自害して果てるのでした(9月1日)。
長政が助命を断ったという説
信長が長政の命を救おうとしたとの逸話は『浅井三代記』のみに見られるわけではありません。
江戸初期に成立した『織田軍記』(著者は遠山信春。信長の事蹟を叙述した戦記。史料的価値は高くはない)にも信長は長政の命を「何としても助けたい」との言葉を発しています。しかし長政は既に「腹を切る事」を考えていました。腹切ることこそ「勇士の死後の本望なり」というのです。そうしたところに信長の使者・不破河内守がやって来て、長政に助命の件を伝えるのでした。「年来の合戦のことは武門の習いであり、是非なき次第。心中に少しも疎意(うとんじる気持ち)はない。ここを退出するならば、必ず助命しよう」との信長の意向を聞いても、長政は首肯しませんでした。「それがしの運命は尽きた。是非に及ばず」と長政は言ったとされます。
『織田軍記』では、信長は長政に一度断られても、不破河内守を再び遣わすなどして、長政を助けようとしました。度重なる説得に、長政は父・久政を助けてくれるなら城から出て、信長の仰せに従おうと言ったこともありました(久政は既に自害していたのですが、長政はそれをその時、知りませんでした)。信長は久政の死を隠して「久政を助けると(長政に)申せ」と不破河内守に命じます。
9月1日、長政は居城を出るのですが、その時、久政が既に死んでいるとの知らせが入ります。「だまされた」と感じた長政はそのまま家老・赤尾美作守の宿所に入り「腹切って死」んだのでした。
「豊臣兄弟!」が描く「異説」
『浅井三代記』と『織田軍記』には、信長は長政を助命したいと念願していたとの逸話が記されています。しかし、先述したように、両書は史料的価値が高くはなく、この逸話は本当にあったこととは思われません。「豊臣兄弟!」でも信長は長政を助けようとしまし、長政がそれを拒む展開になりましたが、その話は『浅井三代記』や『織田軍記』などを参考にしたのでしょう。
筆者は、信長が長政を何としても助けたいと感じたことはないと考えています。信長がそれほどまでに長政の命を救いたいと考えていたならば、翌年(1574)正月、長政の首(頭蓋骨)を漆で固め金泥で彩色して、酒宴の余興として出すというようなことをしたでしょうか(『信長公記』)。
長政らのドクロを酒の余興にした
信長は、浅井久政・長政親子、朝倉義景の首を薄濃(漆で固めて彩色すること)にしたというのです。そして、酒宴の席で披露し、家臣らと共に敵将3人の髑髏を前にして、歌い舞ったのでした。
また信長は長政の嫡男(『信長公記』には10歳と記されています。長政嫡男は万福丸とされますが、同書には名は記されていません)を探し出して、関ヶ原で磔としています。『信長公記』には、長政の嫡男を処刑したことによって、信長は長政への「年来の御無念を散ぜられ」たとあります。長政への長年の遺恨を晴らしたというのです。
「豊臣兄弟!」では、信長が長政を実の弟のように思っていたかのごとく描かれ、長政を助命せんとしますが、実際にはそうしたことはなく、信長は長政にすさまじい怒りを抱いていたのでした。
参考文献
・円地文子監修『人物日本の女性史 第4巻』(集英社、1977年)。
・桑田忠親『桑田忠親著作集 第7巻』(秋田書店、1979年)。
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA、2014年)