松平定信は寛政の改革で庶民に嫌われた
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)において老中・松平定信(1759〜1829)を演じてきたのは、俳優の井上祐貴さんです。同ドラマにおいて定信は勤勉で高潔な完璧主義者として描かれ、言論統制を含む寛政の改革を推し進めることにより、主人公・蔦屋重三郎(1750〜1797)を圧迫していく役柄でした。
実際に、定信の改革は厳粛なものであり、世間の不満は高まっていきました。そして後に「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」と揶揄されることになるのです。白河藩主でもあった定信による寛政の改革の厳しさに江戸の庶民も辟易。汚職や腐敗はあったかもしれないが、田沼意次が老中だった頃が恋しいと謳われたのでした。
独裁的傾向を強める定信に対し、反感を募らせていたのは庶民ばかりではありません。定信が老中に就任することに一役買った一橋治済(11代将軍・徳川家斉の父)も寛政5年(1793)にもなると反定信派となっていました。というのも治済曰く、定信は自身の意見に異を唱えると不機嫌になったとされます。よって定信に重く用いられている者の中には遠慮して定信に意見を具申しなくなったとのこと。定信は自分のお気に入りの者には懇切に対応するが、嫌悪感を抱いている者には無愛想な挨拶・接し方をしたともいいます。
定信の独断専行に幕閣内部でも不満が高まる
人事に関しても同僚への事前相談はなし。また将軍が定信1人を召し出すことはあっても、将軍が定信以外の老中を1人だけ召し出すことは禁じていたというのです。将軍と自分(定信)以外の老中が親密になり、自らに対して良からぬことを画策するようになるのを防ごうとしたのでしょう。
そうした定信の独断専行に幕閣内部でも不満は高まり、反定信派が形成されていたのです。その代表的人物を挙げるとすると本多忠籌(陸奥国泉藩主。老中格)や松平信明(三河吉田藩主。老中)といった人々でした。彼らは定信の独裁気質が将軍・徳川家斉の親政を将来、阻むことを危ぶみ、定信の老中職と将軍補佐を解任しようと画策するのです。一橋治済はもちろんそれに賛同していましたが、御三家のうちの尾張徳川家・水戸徳川家もこれに同意します。
また定信は大奥からも反感を買っていました。定信は大奥に倹約を要請し、大奥の女性たち(将軍の御台所・女中)を政治に介入させないようにしたのです。大奥の支出を3分の1にまで削ったこともあり、大奥の女性たちの定信に対する不満は高まっていきました。こうした大奥の女性たちや幕閣、一橋治済らの定信への悪感情は将軍・家斉も感じ取っていたことでしょう。
一橋治済らにより国政の場から追い出される
寛政5年(1793)7月22日、定信は将軍・家斉の「将軍補佐と老中を解任する」との内意を伝えられます。定信はまさかそのような内容を伝達されるとは思っておらず、怒りを見せたとのこと。定信は将軍補佐の留任、少将への昇進、御用部屋への出入りを要求。家斉は少将(左近衛権少将)への昇進と御用部屋への出入りは認めました。こうして定信は将軍補佐と老中首座を辞する事になります。定信は天明7年(1787)6月に老中に就任し、その後、寛政の改革を推進してきましたが、約6年で頓挫することになります。
定信への反感は彼が辞職してからも消えずに残っていたようで、享和2年(1802)5月1日、前代未聞の出来事が起こります。
定信が退城しようとしたところ、幕臣に仕える足軽が定信の顔を指差した挙句「あいつを見ろ。世の中を悪くしたのはあいつであり、馬鹿な奴だ」と言い放ったのです。陰口くらいはあっても、老中首座を務めた人物に対し、足軽がそのような悪口を吐くなど確かに前代未聞のことでしょう。
ちなみにこの逸話を記述しているのは、定信と同じ時代を生きた下級幕臣・植崎九八郎です。植崎は当初、老中となった松平定信に建議書を提出し、田沼意次を非難。しかし、定信の改革が失敗に終わると再び建議書『牋策雑収』を提出し、定信を痛烈に批判したことで知られています。先ほどの定信に関する逸話が記載されているのはこの『牋策雑収』であります。
更迭後、定信の屋敷で怪奇現象が起きる
ちなみに同書には、この記述の後に定信の家で起こった「怪異」も記録されているのです。それはどのような怪異現象だったのでしょうか。
定信には妾が5人あったようなのですが、その中の1人は雷に打たれて死に、もう1人は病死したとのこと。ところが死後3日目にその死体が突如、動き立ったというのです。奥向きの女性たちは怪異に恐れおののいたと言います。
しかし不可思議な現象はそれで収まりません。今度は誰も見たことのないような虫が大量に集まってきて、打てども払えども飛び去ることはなかったとか。虫に続いて集まってきたのはおびただしい数の雀でした。雀らは障子・襖をついばみ、破ってしまったのです。
定信は度重なる怪異を大いに恐れて常に出入りしていた僧侶を招き祈祷を依頼します。これらの怪異は実は先述の悪口事件の前に起こっていたことでした。怪異に心中を掻き乱された定信は登城の前夜に祈祷してもらったのです。祈祷をしてもらっても定信は恐れるところがあったようですが、翌日、登城して足軽から悪口を浴びせられるという目に遭ったのでした。
江戸の大火では避難する町民に迷惑を…
さて老中を辞任した定信は再び白河藩政に専念することになります。文武を熱心に奨励し、白河城下に設立した藩校の立教館の充実を図ります。文化9年(1812)には家督を子の松平定永に譲りました。
この頃には定信は病を患っていたようですが、文政12年(1829)1月下旬にも風邪をひき、2月下旬には高熱となります。3月21日には神田佐久間町から日本橋、芝、八丁堀までの家々を焼くような火災が発生しますが、その時もまだ定信の体調は回復していませんでした。松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷も焼けますが、避難の際、定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠で寝たまま運ばれたと言います。大きな駕籠でしたから道を塞ぎ、同じように避難しようとしていた群衆は大いに迷惑したようです。
定信は「抜き身」と卑猥な落首に詠まれる
桑名藩と福井藩ではこの火災の時に邪魔な町人を斬り殺して避難したとの噂も広がっていました。2800人もの人間が亡くなったと言うこの大火に関する落首が複数あるのですが、その中には「越中が 抜身で逃る 其跡へ、かはをかぶつて 逃る越前」と言う卑猥なものもありました。「越中」とは定信のこと、「越前」とは福井藩のことです。「かは(皮)をかぶって」とは包茎のこと。越前の福井藩主・松平家の行列に立てる槍には熊の毛皮を被せていたことから「皮かむり槍」と呼ばれていました。そこから「越前」は包茎の隠語であったのです。
こうした落首の刊行は、寛政の改革で出版統制を行なった定信への出版業界からの復讐だったという見解もあります。
定信は病の中にあっても歌会を開催したり、桑名藩主であった息子の定永と藩政について語り合うこともあったようです。体調が一時回復することもありましたが、文政12年(1829)5月13日、ついにその時を迎えます。
その日の午後2時頃からうめき声を上げ始めた定信はその2時間後に脈拍が変わり死去したのです。72歳の生涯でした。
辞世の句は「今更に 何かうらみむ うき事も楽しき事も 見はてつる身は」。
「今更何かを恨んだりすることはない。辛いことも楽しいことも見尽くした身であるから」という意味ですが、達観した定信の最期の心境をうかがうことができます。
参考文献
高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)