※本稿は、黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
秀長は秀吉の3歳下、母親は大政所だった
秀長は天文9年(1540)に、尾張愛知郡中々村(名古屋市中村区)で生まれたとみられる。兄秀吉(1537〜98)からは、3歳年少であった。もっとも秀長の生年については、江戸時代からそのように伝えられていたものの、根拠は明確ではなかった。江戸時代末期成立の『系図纂要』所収「豊臣系図」に、「天文9年3月2日生まれ」と記されていて、これが通説の根拠になっていたと思われるが、同史料の典拠は確認されていない。
その一方で、『多聞院日記』には、死去した天正19年(1591)の時の年齢を「五十一才」と記していて、これだと生年は1年下って、天文10年になる。ただ近時、死去前年の天正18年10月に秀長が泰山府君祭に捧げて作成した都状(同祭に捧げる祭文のこと)に、自書で「秀長五十一」とあることが確認され、これによって生年は天文9年と確定されることになった。
母は天瑞院殿(1517〜92、のちに大政所。一般に本名は「なか」とされているが、これは江戸時代の創作)で、秀吉の同母弟であることは確実である。
江戸時代の史料では「異父兄弟」だが…
問題は父である。通説では、秀吉の父は「木下」弥右衛門、秀長の父は筑阿弥(竹阿弥)とされ、両者は異父兄弟とみられている。しかしその根拠は、江戸時代中期成立の『太閤素生記』であり、それよりも時期が早い、江戸時代前期成立の小瀬甫庵『太閤記』、『祖父物語』では、秀吉の父は「筑阿弥入道」とされ、そのため秀吉と秀長は同父兄弟とされていて、異なっている。
他に有力な徴証がないので事実の確定は難しい。しかし所伝は同父兄弟とするほうが早い時期にみられていて、『太閤素生記』は弥右衛門の死後に、天瑞院殿は筑阿弥と再婚したと記しているが、弥右衛門の死去は秀長・朝日(1543〜90、南明院殿。「旭」とも。副田吉成妻・徳川家康妻)の誕生後であること、そのため筑阿弥は弥右衛門の出家名で両者を同一人物とみることも可能である。これらから弥右衛門と筑阿弥を同一人物とみて、秀長は秀吉と同父母兄弟とみておくことにする。
秀吉・秀長兄弟のほかに姉と妹がいた
秀長のきょうだいには、6歳年長の姉瑞竜院殿(1532〜1625、天文元年生まれ、三好常閑妻。一般に本名は「とも」とされているが、これは江戸時代の創作)、3歳年長の兄秀吉(天文6年生まれ)、3歳年少の妹朝日(天文12年生まれ)があった。父妙雲院殿(弥右衛門・筑阿弥)は、朝日が生まれた天文12年に死去している。その時、秀吉は7歳、秀長は4歳にすぎなかった。
なお秀長の幼名について、「小竹」とされることがあるが、これは「筑阿弥」の子であることによる渾名であることが明らかで(『太閤素生記』)、兄秀吉もそのように称されていたから、秀長の幼名ではない。
父の社会的立場も判明しないが、代々にわたって清須織田家に武家奉公していたというから(『太閤記』)、中々村に居住する上層百姓で、清須織田家に仕えた在村被官であったと推定される。そのためそれなりの耕地を所有していたことだろう。
父を亡くし、長男の秀吉は10歳から働いた
しかし子どもが年少時に父が死去したことで、百姓家としての経営は成り立たない状態になり、耕地は村の有力者や親類に預けられたことだろう。そのため秀吉一家は、他の百姓家に奉公するようになったとみられ、なかでも秀吉は10歳の時(天文15年のことか)に村を出て諸所で奉公するようになったとみなされる。
秀吉は、遠江・三河・尾張・美濃4カ国を廻って奉公していたといい、永禄元年(1558)、22歳の時に、尾張清須に戻ってきて、その時に清須城主になっていた織田信長(1534〜82)に、小者として仕えたとみなされる(『太閤記』『明智軍記』)。
その時に秀長は19歳になっている。この年齢であれば、秀長はすでに元服していたことだろう。仮名(元服後に称す通称)は、この時から「小一郎」であった可能性はあろう。そうであれば父が所有していた耕地についても、一部は戻されて、百姓家として自立するようになっていたことだろう。
もともと苗字はあったが、父の死で…
父は清須織田家の在村被官として存在していたというから、苗字を称していたであろう。しかしその死去で百姓家として没落したため、秀吉も秀長も苗字を称することはできなくっていたと考えられる。苗字を称することができるかどうかは、村での身分に規定されていた。この時に秀長が所有した耕地は、それほどの規模ではなかったであろうから、まだ苗字を称することができるほどではなかったと思われる。村の有力者や親類の支援をうけながら、百姓家として存立を目指していた、という状態であったと思われる。
ちなみに村に対しては、領主から戦争時に軍役を賦課されることがあり、その場合に村では、経営規模の小さな百姓家当主を、「足軽」として差し出していた。もしかしたら秀長も、その役割を負わされていたかもしれない。
秀吉が織田信長に仕え、秀長も直臣となる
そうしたなかで、秀吉に誘われてであろう、秀長は織田信長に仕えて、秀吉の与力に配属されたと考えられる。秀吉の織田家での出世の過程について、当時の史料で検証することはできないが、それについては『明智軍記』の内容が事実に近いように思われる。
永禄4年(1561)に侍身分に取り立てられて「足軽」(下級武士)になり、信長御馬廻衆木下雅楽助の寄子に編成され、足軽給分を支給されるようになり、同5年に信長から所領30貫文(約300万円)を与えられて直臣に取り立てられ、寄親木下雅楽助から木下苗字を与えられて「木下藤吉郎」を称し、同6年に尾張犬山(犬山市)での戦功により所領100貫文(約1000万円)を与えられて、「侍大将」に取り立てられ、同7年正月には年頭儀礼で清須城の広間に着座するようになった、という。
秀吉は当初、信長には小者(奉公人)として仕えていたから、その時点では苗字も実名も持っていなかったに違いない。仮名藤吉郎は称していた可能性はあろう。そして「足軽」に取り立てられたことにともなって、信長の命令により、寄親から苗字を与えられて木下苗字を称するようになったと考えられる。それと同時に実名「秀吉」を名乗ったと考えられる。苗字を持っていなかった武士が、寄親から苗字を与えられることは、戦国時代では普通のことであったから、この場合も不自然なことではない。
秀長の「長」の字は信長から与えられた
こうして秀吉が、織田家の武将に成長していくなかで、秀長は秀吉の誘いをうけて、信長の家臣になったと考えられる。時期は判明しないが、秀吉が信長の直臣になった永禄5年のことか、侍大将になった同6年のことだろう。最初は秀吉から所領を与えられ、そのうえで信長からも所領を与えられ、その直臣になった、と考えられる。
それにともなって秀長は、苗字を秀吉と同じ木下苗字を、実名は信長から「長」字を偏諱として与えられ、秀吉の「秀」字に冠して「長秀」を名乗った。秀長が信長から偏諱を与えられていることから、その立場は信長の直臣であったことは確実である。実際にも、天正2年(1574)7月に、信長の伊勢長島(桑名市)攻めで、信長御馬廻衆の浅井信広とともに先陣を務めていることから確認できる(『信長公記』)。
近江の浅井家攻略にも兄弟で尽力した
秀長の当時の史料での初見は、その1年前の天正元年8月のことになる。8月16日に、近江伊香郡黒田郷(長浜市)に、百姓が還住(帰村)したならば、軍勢による濫妨狼藉(暴力的な掠奪)の禁止を保証し、違犯者がいたら連絡することを命じる証文を出している。これが秀長の確認できる発給文書の初見で、「木下小一郎長秀」と署名している。
この時期、信長は近江浅井家領国を攻撃していて、最前線での大将を秀吉が務めていた。その8日前の8月8日に、秀吉は浅井家家臣で山本山城(長浜市)に拠っていた阿閉貞征を降伏させていた。黒田郷は浅井家領国のなかでも、最北部地域に位置していた。このことから秀長は、秀吉による浅井家領国攻略において、与力として秀吉に配属されていて、領国北部の経略を担っていたことがうかがわれる。
信長は、9月1日に浅井家本拠の小谷城(長浜市)を攻略し、浅井家を滅亡させた。戦後、秀吉は浅井家領国のうち江北三郡(伊香・浅井・坂田)を領国として与えられ、以後は独自の統治をおこなうとともに、本拠として新たに長浜城(長浜市)を構築した。秀長は、それをうけて秀吉から長浜領で所領を与えられて、秀吉の領国統治を補佐することになったと思われる。とはいえその翌年の天正2年には、先に触れたように、秀長は信長の直臣としてその軍事行動に従っているので、まだ信長直臣の立場は維持されていたと考えられる。
20代で結婚し、嫡男が早世する不幸も経験
その立場そのものは、信長死去まで変わることはなかったとみられるが、信長の軍事行動に直接従うことは、その長島攻めを最後に、以後はみられなくなっている。以後はもっぱら秀吉に従う立場になったと考えられる。譜代家臣のいなかった秀吉にとって、軍事行動や領国統治を支えたのは、信長から配属された与力たちであった。秀吉は領国大名になったことにともなって、やがてそれらの与力を直臣に転属させていくのであるが(杉原家次・浅野長吉・宮部継潤・蜂須賀正勝など)、なかでも秀長は、秀吉の唯一の弟であったから、秀吉の代行者として活躍をみせていくようになる。
なおこの時期の秀長の行動で注目されるのは、すでに結婚し、嫡男が誕生していたとみられることである。確かな事実として確認できているわけではないが、秀長には早世した嫡男与一郎が存在していて、天正10年(1582)に死去していた。その時に与一郎という仮名を称しているから、すでに元服していたと考えられ、死去した年の元服としても、その時に15歳であったとみられ、そうすると生年は永禄11年(1568)と推定される。母は、秀長の死去まで正妻として存在した慈雲院殿(生没年未詳)とみられる。結婚は与一郎誕生の2年前頃、永禄9年頃と推定される。
前年の永禄8年に、秀吉は浅野(のち木下)寧々(1549〜1624、高台院)と結婚したと推定され、秀長の結婚はそれをうけるようにしておこなわれたと考えられる。その時の結婚とすれば、秀長は27歳になっていた。
