破壊力ばつぐんだった「べらぼう」の北斎役
大河ドラマ「べらぼう」において葛飾北斎を演じるのは、お笑いコンビ「野性爆弾」ボケ担当の芸人・くっきー!さんです。破天荒で「画狂」として知られる北斎をくっきー!さんがどのように演じるのかが注目されます。
江戸時代後期の浮世絵師として北斎は著名です。山水・花鳥・人物・器物などあらゆる題材を対象とした「北斎漫画」はフランス印象派にも影響を与えたことが知られており、現代においても北斎の人気は国内外でも高いのです。2014年10月から翌年1月にかけてパリのグラン・パレ・ナショナル・ギャラリーにて「北斎展」が開催され、35万人以上が来場したことはその事を改めて証明したと言えるでしょう。日本においても北斎の映画が度々制作されています(例えば2021年公開の映画『HOKUSAI』。北斎を演じたのは俳優の柳楽優弥さん)。
若き北斎は蔦屋重三郎から仕事をもらうが…
「べらぼう」の主人公・蔦屋重三郎と北斎は繋がりがありました。若き日の北斎が師事したのが、浮世絵師の勝川春章ですが、春章は浮世絵師の北尾重政と共に『青楼美人合姿鏡』(吉原の遊女の姿を描く錦絵本。1776年)の絵を描いています。この作品を出版したのが重三郎でした。
そして重三郎は、春草の弟子筋にあたり、「勝川春朗」と名乗っていた北斎にも絵を依頼しています。例えば吉原の年間行事の中でも重要とされる「俄」の絵です。蔦屋重三郎により出版された「仁和嘉狂言」シリーズは北斎30代の仕事でした。また重三郎が亡くなった後になるのですが、北斎は耕書堂(重三郎の書店)の絵を描いています。
では、重三郎とも仕事をした北斎とはどのような人物だったのでしょう。北斎は数々の逸話で彩られており、とりわけ目をひくのがその奇行です。先ず、北斎はその生涯の中で三十数回も画名を改名したと言われています。芸能人でも改名する人がいますが、せいぜい数回でしょう。ではなぜ北斎はそれ程多く改名したのか。心境の変化があったのかと言うとそうではなく、改名し、前の名を門人に譲っていたのです。何のために? いくばくかの礼金を得るためでした。
「勝川春朗」から「画狂人」まで名を変えた
北斎は貧乏生活に陥ることがあり、それが極まるとすぐに門人に画名を譲ろうとしたのです。門人もたまったものではなく、閉口したとのこと。北斎の凄いところは改名するごとに画風が変化していると評されていることです。これは誰でもできることではありません。
ちなみに北斎の画号には「勝川春朗」「勝春朗」「叢春朗」「群馬亭」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「北斎」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「卍翁」「卍老人」「不染居」「九々蜃」などがあります。有名な「北斎」は「北斎辰政」の略称であり、彼が39歳の頃に名乗りました。この画号は北極星を神格化した北辰妙見菩薩信仰(日蓮宗系)によるとされます。北斎は常に「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品(みょうほうれんげきょう・ふげんぼさつ・かんぼつほん)」の呪を唱えていたと言いますが、道を歩く時もそうだったようです。
そう聞くと「信仰心がある人なのか」もしくは「変人なのか」と思うでしょう。ではなぜ北斎はそんなことをしていたのか。それは北斎は道端での立ち話や雑談をすることが大嫌いだったからです。煩わしいと思っていたのです。北斎は「呪を唱えながら歩くと道で知っている人に会っても目に入らない。奇妙なことだ」と語っています(また知人であっても、呪を唱える人に話しかけにくいでしょう)。
生涯で93回も引っ越すなどの奇行
北斎の奇行の1つとして有名なのが、引越しの多さです。諸説ありますが、転居は93回に及んだと言います。『広益諸家人名録』には北斎は「居所不住」と記されているのです。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように江戸は火事が多い場所でしたが、北斎は多くの転居をしても不思議なことになかなか火事に遭うことはありませんでした。天保10年(1840)頃、本所石原町から達磨横丁に転居した時、北斎は初めて火事に遭ったのです。火事だと知ると北斎は絵筆を持ったまま家から一目散に逃げ出したとされます。家財を持ち出す暇はあったようですが、それをせずに絵筆のみを持ち、北斎は飛び出したのです。絵筆があればそれで十分。それで自分は生きていける。北斎にはそうした自負もしくは覚悟があったのかもしれません。
火災に遭い、文房具の多くは焼けてしまったようですが、北斎は工夫で苦難を乗り切ります。「貧乏徳利」(円筒形の粗製の陶器徳利)を割った北斎は、徳利の底に水を湛えます。これを北斎は筆洗としたのです。また徳利の大小の破片を画具皿の代わりとしました。赤貧とはまさにこの事でしょう。
豪快なイメージがあるが、酒は飲まなかった
豪放磊落な北斎ですので、一般のイメージとしては大酒を飲み、煙草もよく吸ったと思われるかもしれません。が、北斎は酒も煙草もやりませんでした。北斎の画料は良かったとされており、酒も煙草も嗜むことはなかったのに、北斎はなぜ貧乏であったのか。
それは北斎がお金に無頓着だったからです。画料が紙包みにくるまれていても、北斎は中身を確認することはせず。米屋などが掛け取りに来ても、北斎はその辺にある紙包みを放り投げて持たせる。紙包みの中には大金が入っていたということも……。これではお金が貯まらず、貧乏生活に陥っても仕方ありません。
北斎の行状は、批判的に評されることもあります。北斎は目の前に食べ物があったとしても家の食器に移すことはしなかったと言われています。箸を使うことなく、手掴みで食べるのでした。普通に考えると汚らしい行為であるのですが、北斎の場合にはそうした汚いとか下品とか、そうしたものを超越しているように思うのです。
北斎は世に媚びることなく、自らの信念に則って行動しているように感じます。北斎の頭の中には常に作画がありました。食べ物の包みも放置し、ゴミだらけの家の中で絵を描いたのもその表れでしょう。また北斎は頭から布団を被り、手元に尿瓶を置いて作画したと伝わります。
幕末になるまで長生きし、90歳で死去
このような生活を続けていたら早死にしそうですが、北斎は長命でした。代表作である浮世絵『冨嶽三十六景』シリーズ(全46図)は、満70歳を過ぎてから刷り出されたものでした。
北斎の没年は嘉永2年(1849)、90歳で世を去っているのです。ちなみに北斎の死の4年後にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航します。
死に臨み、北斎は大息、つまり大きなため息をついたといいます。そして「天我をして十年の命を長ふせしめば」(天が私に10年の命を与えるならば)と語ります。その後で「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工(絵描き)となるを得べし」(天が私の命をあと5年伸ばしてくれたならば、真正の画工になってみせる)と話し、そのまま亡くなったのでした。北斎の胸中では、自らはまだ「真正の画工」ではなかったのです。謙虚でありますし、向上心の塊とも言うべき北斎の臨終の言葉です。
参考文献
・尾崎周道『北斎 ある画狂人の生涯』(日本経済新聞社、1968年)
・飯島虚心著、鈴木重三校注『葛飾北斎伝』(岩波書店、1999年)