マウンティング欲求から人は決して逃れられない

相手に対して自分が優位であることを誇示する言動を「マウンティング」と言います。

もともとは動物学用語で、群内で優位なサルが劣位のサルの尻上に乗り制圧することで、序列を確認する行為を指しました。これが転じて今日では、人々が会話やSNSで自分がいかに優れた知識や教養を備えているか、金銭的あるいは精神的に満ち足りた生活を送っているかを誇示する行為を指す言葉として広く使われるようになりました。

用語としては新語に属するものの、行為そのものは、人間が集団で暮らし社会を形成した、いにしえの時代から続いています。縄文時代は仕留めた獲物の大きさ、平安時代は蹴鞠や歌詠みの上手さ、戦国時代は打ち取った敵兵の首の数でマウントの取り合いがあったでしょう。マウンティングは人間の本能に刻まれた、コンパルシブ・ビヘイビア(強迫的行動)なのです。

グループミーティング
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現代社会には、どのようなマウンティングがあるのでしょうか。まずは事例をご覧ください。

【事例①】「ようやくニューヨーク出張から帰ってこれたのですが、時差ボケで死にそう。来週の国際会議の資料作成が間に合わない」(時差ボケで苦しんでいることを自虐的に見せつつ、グローバルに活躍している自身の姿を強調する時差ボケマウント)
【事例②】「自民党の勉強会に呼ばれてお話しさせていただく機会があったのですが、皆さん気さくでいい方ばかりでしたよ」(自分が与党からお呼びがかかるような特別な立場にあることを示唆する自民党呼び出しマウント)

人間社会はサルとは異なり、力の強さや体格の大きさでマウントが取れるほど単純ではありません。資産、経歴、職業、消費、人脈、教養、趣味嗜好。人々はあらゆることで自分の満ち足り具合をアピールし、マウントを競い合っているのです。

SNSの普及はこの傾向に拍車をかけました。フォロワーを集め、不特定多数に向けて自分の優位を呟き、映え写真を見せては「いいね!」を集める。反応が大きいほど自己肯定感が高まり、欲求が満たされる――。

一方で、競争に精神を擦り減らし、見栄を張ることに虚しさを感じ、生きる気力さえ失ってしまう「マウンティング疲れ」も社会問題になっています。否定派は言います。

「他人との比較なんて不毛だ。みんな違ってみんないい。比べるなら過去の自分と現在の自分を比較して、日々の小さな成長を前向きに生きる糧にすればいい」

この手のアドバイスは一見建設的で、もっともらしく聞こえます。しかし、過去と現在を比較するなどという高度な芸当を成せる人がどれほど存在するでしょう。それで満足できるなら、私たちはとうの昔にこの欲求から解放されているはずです。

人が社会に生きている以上、マウンティングの欲求から逃れることはできません。私たちは自身の価値基準より他者との比較を優先してしまう、しょうもない生き物なのです。であるならば、否定せず受け入れようではありませんか。自分の欲求を正確に理解して、意識的にコントロールすることが必要です。

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