怖くて誰もやらない鉄砲商で大儲け

幕末に、捨て身の戦術で成り上がったのが大倉喜八郎です。

大倉財閥の創設者・大倉喜八郎は、のちに帝国ホテルやホテルオークラ、帝国劇場などを創設しますが、そのスタートはそれこそ裸一貫の何もない状態でした。

喜八郎の生家は越後の名主でしたが、当人は商人を志し、18歳のときに江戸へ出ます。鰹節屋で働き、独立して乾物屋を始めますが、なかなか思うほどには儲かりません。

大きな商売を始めるためには、それなりの元手資金が必要でしたが、喜八郎にはそれがありませんでした。そこで彼は、いちかばちか捨て身になるしかない、と覚悟を決めます。

選んだのは、鉄砲あきないでした。

治安は乱れ、内憂外患の幕末日本では、鉄砲の需要は十分に見込めました。

しかし、大儲けできるのがわかっているのに、当時の鉄砲商はいずれも店を閉めています。

血気盛んな武士たちが、市中で暴れている物騒な世の中でしたから、店先に鉄砲を並べていたら、略奪されかねませんし、下手をすれば、生命まで狙われたかもしれません。そんな厳しい状況でしたが、喜八郎はむしろチャンスだと考えました。

鉄砲商に丁稚奉公で入って、朝から晩まで働き、4カ月でノウハウを身につけて、喜八郎は30歳で独立しました。

危険なエリアを夜中に往復して鉄砲を運ぶ

開業するまでは順調でしたが、鉄砲は単価が高いため、何丁も揃えて店に並べられるほどの資本が、彼にはありませんでした。

そこで喜八郎は、今でいう予約販売のやり方を思いつきます。

店の入口に、非売品の玩具みたいな銃をサンプルとして置き、客が来たら手付金をもらい、一日待ってもらいます。その手付金を持って、その足で横浜の外国商館に鉄砲を買い付けに行きました。

問題は、その道中です。処刑場であった小塚原を早駕籠はやかごを使って往復したのです。

小塚原は、首を斬った死体が並んでいます。人が近寄らないので、山賊や筋の悪い連中がたむろしていました。

喜八郎はそんな危険なエリアを夜中に往復して、横浜から鉄砲を運んだのです。

いつ襲われてもおかしくないため、喜八郎は仕入れた鉄砲に実弾を込め、駕籠に乗っていたといいます。

まさに、捨て身の覚悟だったわけです。この生命懸けの挑戦はやがて報われ、喜八郎は少しずつ貯まったお金を使って、より大きな商い=武器弾薬を動かせるようになっていったのでした。

市街
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