道長が実現した分不相応な結婚

ドラマでは、このように相思相愛の2人があえて結ばれないという道を選んだのは、寛和2年(986)6月に花山天皇が出家させられて一条天皇が即位した、いわゆる寛和の変の直前だった。

その翌年の永延元年(987)12月、道長は左大臣源雅信の娘で、ドラマでは黒木華が演じている倫子と結婚している。道長22歳、倫子24歳のときで、当時の道長にとって、宇多天皇のひ孫にあたる倫子の婿になるのは、分不相応なことだった。

栄華物語』によれば、源雅信は当初、道長が娘に求婚したことを「あなもの狂ほし。ことのほかや(なんと馬鹿馬鹿しい。問題外だ)」と一笑に付したという。いずれ倫子を天皇の后にしたいと考えていたからだ。

菊池容斎『前賢故実』巻之六より「藤原道長」
菊池容斎『前賢故実』巻之六より「藤原道長」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

しかし、現実には、倫子は后になるのが難しい状況だった。4歳年下の花山天皇なら、年齢はなんとか釣り合いがとれたが、退位前、入内した后を極端に寵愛したり、すぐに飽きたりしていたこの天皇に娘を入内させることに、上級貴族たちが足踏みする状況だった。一方、次に即位した一条天皇はまだ7歳で、東宮も12歳。倫子はいわば行き場を失っていたのである。

それでも、藤原兼家の五男(正室の子としては三男)で左京大夫にすぎない道長では不足だと、雅信は考えたと思われるが、その妻の穆子は、状況を考えれば良縁だと夫を説得したという。

6人抜きで権中納言に抜擢

この結婚は道長の将来を変えた。まず、結婚翌月の永延2年(988)正月、辛うじて公卿の末席につけていた道長は、6人抜きで権中納言に抜擢された。山本淳子氏は「政界トップの摂政(註・兼家のこと)の息子が源氏の重鎮である左大臣の婿になるとは、こういうことなのだ」と記す(『道長ものがたり』朝日選書)。

じつは、父や兄の結婚相手は、源倫子のような高貴な生まれではなかった。道長の母、すなわち兼家の正妻の時姫は、藤原仲正という受領(地方の長官)階級出身だった。また、長兄道隆の正妻の高階貴子も、次兄道兼の正妻であった藤原遠量の娘も、同様に受領階級の娘だった。

すなわち、「兼家の家において、血統のよい家に婿取りされて自分の〈格〉を上げようという考えを持ったのは、末子の道長が初めて」であり、「『兼家様の御子ではあるものの、ただの末っ子の坊ちゃんに過ぎない』というそれまでの道長像は、結婚ということ一つで塗り替えられていった」(前掲書)のである。

事実、倫子は2男4女に恵まれ、男子の頼通と教通はともに関白太政大臣にまで上り詰めた。女子も彰子、妍子、威子が中宮になり、四女の嬉子こそ、東宮に入内したが早世したため中宮にはならなかったものの、息子はのちに後冷泉天皇になっている。