古典の授業では「『源氏物語』の作者は紫式部だ」と教えられるが、署名入りの原本がない以上、それは確定した事実とは言い切れない。『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)の共著者でライターの北山円香さんは「作者についてはこれまでにさまざまな説が唱えられてきた。専門家たちの意見は、いまだに割れている」という――。

※本稿は、源氏物語研究会=編『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

京都・宇治市にある、日本の源氏物語の紫式部の石像
写真=iStock.com/Shi Zheng
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紫式部が「藤原氏敗北」の物語を書くかという疑問

「紫式部は2人存在した」という信じがたい説を唱えたのは、作家の藤本泉でした。藤本は道長の愛人ともされることがある紫式部が、「源氏勝利、藤原氏敗北」のプロットを作ったとするには無理があるといい、紫式部が「源氏物語」を記したことを示す唯一の証拠である「紫式部日記」も、後世の人が記したものではないかと指摘します。

そうした推測から、藤原為時の娘であり歌人の「紫式部」と、「源氏物語」に関わりのある「紫式部」の2人の存在を想定し、2人がのちに混同されてしまったのではないかという結論を導きだしました。

にわかには信じられない奇説ですが、紫式部の署名が記された「源氏物語」が存在しない以上、この物語の作者については推測を重ねることしかできないのです。

「源氏物語の作者は複数説」は過去にもあった

実際に「源氏物語」を紫式部ひとりが書いたものではないとする説は、古くから存在しました。

鎌倉時代から存在する説に、紫式部と藤原道長の合作だというものがあります。紫式部の作を藤原行成が清書した際、道長が「自分も創作に参加した」と奥書を加えたという『河海抄』の一節によります。

源氏物語の注釈書『花鳥余情』には、本当は紫式部の父である藤原為時の作で、細かなところを紫式部が書いたとする説があります。こうした説が唱えられたことには、「女性である紫式部が、あれほどの大作をひとりで書きあげられるはずがない」というような、根強い女性蔑視の感覚があったといいます。

物語を二分して、「幻」までを紫式部が、「匂宮」以降を娘である大弐三位が記したという説もあります。この説は、中国の歴史書『漢書』の成立になぞらえた、信憑性の低い類推だと言われています。ほかにも、宇治十帖に連なる「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖については、古くは中世末期から異筆説が唱えられています。

色々な説を紹介しましたが、実際のところ現在の学界では「源氏物語」の作者が紫式部であるということは、『紫式部日記』や『紫式部集』から、ほぼ確かなことと言われています。