本当にしたかったのは「家族サービス」だったのか

本当にしたいことはなんだったのか。それは「週末に遠出する家族サービス」ではなく、自分が大切にしたい人を大切にしたい、よい父でありたい、そんな思いだったはずです。

そういった考えは決して間違っているわけではありません。大事なのは「大切にする」とはどのようなことか、「よい父」とはどのような人か、それは一緒に生きていきたい人たちと、一緒に作る必要があると言うことです。

他人の言葉を自分の言葉だと思い込む不幸

もしもここで「孤独になる言語化」をしていたら例えばこんな言い方をするかもしれません。

「俺がわざわざ家族サービスしてやるって言ってるのになんで嬉しくないんだ。父親の俺を馬鹿にしているのか?」
「せっかくの家族サービスなのに近くでお菓子なんて全然つまらない。俺はせっかくの週末は遠くに行きたいんだ」
「家でゲームなんてしてるから成績が悪くなるし世間を知らないんだ。もっといろんな経験をさせてやる」

時には「しなきゃならないから、疲れてる中で無理してやっているのに、なぜわかってくれないんだ」「無理して立派なことをしているのになぜ褒めない?」というかもしれません。その場合はもっと悲惨です。なぜなら「本人も本当はしたくない」のですから。

単に「いい父親とはそのようにするべきなのだ」などと、他人から与えられた言葉を、自分の言葉だと思い込んでしまっているのだとしたら、こんな不幸はないでしょう。

登場人物の中で、誰一人楽しんでいないのです。もはやこの家には、誰も住むことができません。自分すら居心地の悪い家を作ってしまう悲劇がここにはあります。

孤独になる言語化

現象=いきなりキレてしまう

パターン=渋滞にイライラしたとき
構造=週末しか遠出できず、さらに渋滞する
メンタルモデル=良い父親は家族サービスをする

人と生きる言語化

現象=どうしたらもっと楽しいか聞ける

パターン=相手が喜んでくれなかったとき
構造=最善策を一緒に考えようとする
メンタルモデル=良い父親像とは何かを考察