ドラマ化で原作者がいちばん恐れていたこと

上記のようなことは「原作モノ」、特にマンガ原作のメリットだが、メリットがあればデメリットもある。

知っている主人公や筋書きに共感しやすいのは前述した通りだが、裏返せばそれだけイメージがついてしまっているということだ。世界観やイメージなどは原作と映像化されたドラマの間に齟齬そごが生じると、大きな反感や反発を生みやすい。特にマンガ原作の場合は、一度「ビジュアル化」されているので、それを再度映像化した際のイメージが違えば、そのギャップはさらに大きいものになる。今回の芦原氏はその点を一番恐れたのではないだろうか。

もうひとつ、私は昔といまのドラマ視聴の「環境の変化」という点を指摘したい。昔は録画でもしない限り、放送された番組を再び見るには「再放送」のタイミングを待たねばならなかった。しかし、いまは配信がある。その気になれば何度でも繰り返し視聴することができる。

一度見て気にならなかった部分やアラも気になってくる。同時に、演者への評価も厳しくなる。技術の進歩によって画質が良くなっている点もあるだろう。「ちょっと原作と違い過ぎないか?」であったり「あの部分は許せない」といった指摘が出てきたりすることもある。制作者や演者のハードルがどんどん高くなるというストレスが生じるのである。

以上のことを踏まえて、この稿の最後に私の提言を述べたい。テレビのドラマはもっと「オリジナル作品」を増やすべきである。

テレビ局の安易な「原作依存」という大問題

今回のような悲劇が起こることを、私は自著『混沌時代の新・テレビ論』のP256で示唆している。いま、テレビ局のドラマ・プロデューサーの机の周りには、マンガ原作のコミックが山積みになっている。そこには、小説のような活字だけの原作はない。その状況を嘆かわしいと思うのは私だけだろうか。

マンガは作者の頭の中を可視化したものだと考えている。一度「クリエイティビティ」をビジュアル化したものを、再度、映像化するときには、もっと慎重になるべきではないだろうか。

そう考えている私は、マンガ原作をドラマ化する企画書を書いたことがない。もちろん、そういった手法が得意なクリエイターもいるし、「実写化不可能」と言われるマンガに挑みたいという気持ちも否定しない。だが、クリエイターの「原作依存」には警鐘を鳴らしたい。

安易な理由で「原作ありき」で企画を考えるのはやめた方がいい。そういうことを繰り返しているプロデューサーには「いったんそこから離れてみたら」とアドバイスをしたい。原作があれば「安心」という理由は、必ず「慢心」を招く。

映像化を許諾した芦原氏には、マルチメディアによって一人でも多くの視聴者に自分の作品に触れてほしい、知ってほしいという思いがあったに違いない。そこには、出版社の後押しがあったかもしれない。だが、芦原氏のブログを読んでいると、必ずしも手放しでドラマ化を歓迎していたわけではないことが読み取れる。芦原氏が感じた不安は私にはよくわかるのだ。