日本人メジャーリーガーのパイオニア

日本人として「最初」にメジャーリーグに挑戦したのは、野茂英雄である。1964~65年に唯一南海から派遣された村上雅則がいたが(彼のお陰で、後から説明する“任意引退”という「禁じ手」で本来は球団に反対されていけないメジャー行きを野茂が切り開いた)、自らそれを選び、背水の陣で渡米し、挑戦したのは100年にわたる日本球界史のなかで1995年の野茂英雄が一歩目であった。

それ以前も1960年代にドジャース、ホワイトソックスが長嶋茂雄と王貞治をスカウトしようとしたこともあったが、当時の読売オーナー正力松太郎にバッサリ断られている。

後に王は「本当はメジャーリーグで腕試しをしたかった。しかし、たとえ読売にアメリカ行きを許されたとしても、ファンは絶対に許してくれなかったでしょう。当時はそういう風潮でしたから」(ロバート・ホワイティング『野茂英雄 日米の野球をどう変えたか』2011PHP)と語っている。

日本のファンもそれを望んでいなかったし、日本人のスター野球選手がメジャーに行くというのは1990年代になっても「日本人が月面着陸するくらい浮世離れしていた」ものだった。

ドジャー・スタジアム
写真=iStock.com/Laser1987
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野茂英雄が使った禁じ手

そもそも日本のプロ野球選手は、転職を禁じられたサラリーマンのようなものだった。

甲子園で活躍をすると「ドラフト制」によって入札で競り落とした球団(1球団6名まで指名)への“入社”が、半ば強制的に決定される。

選手にとって選択肢は「入社しない」の拒否権しかなく、実質的に自ら球団やチームを選ぶ手段がなかったことが、1985年のPL学園の清原と桑田をめぐる巨人ドラフト事件の悲劇にもつながっていた。

1993年になってFA(フリーエージェント)制度が導入され、累積10年間(のちに短縮して累積7年に)を最初の球団で勤めあげた選手に関しては移籍が可能になった。それだけでも、当時は画期的な変化であった。

野茂は高校時代に甲子園ベスト8で社会人野球の新日鉄に進む。当時から編み出していたトルネード投球を武器にオリンピックでも活躍。1989年に史上最多の8球団ドラフト1位指名を受けるほど期待の高い選手だった。

彼は、当時夢見ることすら遠い「月面着陸」としてのメジャー挑戦を視野にいれていた異端児だった。野茂がメジャーに移籍した手法は、正規ルートではなく(というか現代のような正規ルートが存在しなかったので)「禁じ手」である。

94年オフ、近鉄との契約更新時に6年20億円という(当時は)“法外な”契約金を申し出て、近鉄にあえて断らせて、任意引退を表明したのだ。任意引退した選手はチームから外れるので、個人でメジャーと交渉ができるという「穴」があった。