「緬羊百万頭計画」という国策

となると、日本人と羊の本格的な邂逅かいこうがいつなのか気になるところだ。

調べてみると、それは今からおよそ150年前。黒船来航によって江戸幕府が守り抜いてきた鎖国政策に終止符が打たれ、開国によって西洋文化が一気に国内に流入した明治初期にまでさかのぼる。

米国から初めて日本に羊が持ち込まれたのが1872年。当初の目的は食肉ではなく羊毛の原材料だった。

転機となったのは1918年。天皇を国家元首とする大日本帝国が主導し、「緬羊めんよう百万頭計画」という国策が発布する。

緬羊とは牧畜された羊の別称。当時、中国東北部(満州)の極東と呼ばれる極寒地域に進出していた日本にとって、麻よりも防寒に優れた羊毛は軍隊、警察、鉄道員の制服の素材として必需品だった。

しかも、日露戦争後、日本は国際連盟を脱退。米英という主要な羊毛の輸入国を敵に回す結果となった日本にとって、国産羊毛の供給は急務だったのだ。

大久保利通が羊の食べ方の普及に努めた

こうして羊の生育に適した雨の少ない全国の高地で、羊の牧畜が開始される。

その後、日本は日清、日露戦争を経て、太平洋戦争へと突入。

結論から言うと時の政府が目指した羊毛の増産計画は、終戦の年にあたる1945年の時点で、わずか18万頭しか達成できず、目標の100万頭には遠くおよぶことはなかった。

日本における羊の飼育頭数が94万頭まで激増したのは戦後の1957年。

しかし、その数年後に羊毛の輸入自由化が決定されると日本の牧羊は衰退の一途をたどる。

実はこの「緬羊百万頭計画」を指揮した人物こそ、時の内務卿だったかの大久保利通だ。

大久保は、羊毛の供給と並行して、と畜された羊の食べ方の普及に努めた。

大久保利通が羊の食べ方の普及に努めた
写真=iStock.com/tracielouise
大久保利通が羊の食べ方の普及に努めた(※写真はイメージです)