当初、車の残骸はA滑走路に並べていたが、3月20日前後に米軍のヘリの発着のため、急遽別の場所へ移すことになった。米海兵隊の働きは圧巻だった。巨大なフォークリフトで持ち上げ、セルフローダーに載せて運び出す。わずか4日で、約1000台あった車の残骸をすべて滑走路外の敷地に並べかえてしまった。

「お昼は、水と米を持ち込んで近隣の食堂につくってもらった塩おにぎりを食べてましたが、米軍の人たちはその時間もまったく休まず機械を動かし続けている。『大丈夫? 』ときいたら、『(8時間ごとの)三交代制だから』って」(北原氏の部下・酒井裕之氏)

前田道路 東北支店 仙台南営業所所長 <strong>北原正俊</strong>

前田道路 東北支店 仙台南営業所所長 北原正俊

前田道路では、“仙台空港が最優先”との社長命令が下り、瓦礫を持ち上げるタイヤショベル20台とバックホー7~8台、溝地に落ちた車を引き上げるフォーク3台と大型ダンプ50台を集めた。現地入りした常務と東北支店長が、北原氏の要求を迅速に形にした。

ヘドロや瓦礫は何が入っているかわからないし、津波で運ばれた砂が乾燥して強風で舞い上がる。同社と関連会社の社員たちは、防寒着にヘルメット、防塵メガネとマスク、軍手の上からゴム手袋を被せて重機や手作業を続けた。

「常に『ここはこうしたほうがいい』と提案を(共同運用調整会議に)出していましたが、とにかく結論を出すのが速かったですね。現場のことは直接米軍とやり取り。毎朝、携帯で『ショベル一台貸してくれ』などと日本語・英語半々で交渉しました」(北原氏)

エリアごとに片付けの期日が区切られ、それにぴたりと合わせて作業は進んだ。終盤はほとんど海兵隊と前田道路の共同作業。塵一つ取っても、旅客機のエンジンが吸い込めば大事である。3月末には、皆が滑走路に一直線に並んで、小さいゴミを手で拾い集めた。

笠松氏は、進行をどう見ていたのか。

「当初は何もかも未知数。復旧に半年はかかると思いました。しかし5日も経つと、各指揮官のリーダーシップの素晴らしさや、後から持ち込まれた機材があっという間に瓦礫を片付けていくのを見て、『これはいけるかも』と、3月31日を目標に掲げました」

しかし、「復興のシンボル」には、滑走路の復旧だけでは足りない。

「国交省航空局から『10日頃に民間機を降ろすから』と聞いたのが4月に入ってから。『降ろせるか?』じゃなくて『降ろすから』(苦笑)」

と北原氏。貨物かと思ったら、JAL、ANAなどというので旅客機とわかった。法律上、侵入者を防ぐ柵がないと飛行機は離発着できない。

仙台空港ビル 社長 <strong>伊藤克彦</strong>

仙台空港ビル 社長 伊藤克彦

「200人体制を10班に分け、滑走路の周囲に木柵6000本を立てた」

コアマシンで2メートル間隔で地面に穴を開け、全国から集めた材木を立て、手作業で有刺鉄線を巻いた。一切が終わったのは、当日の4月13日朝だった。

「他の空港のキャパシティの問題もあって、国交省と空港ビル、航空会社が連携して4月11日を予定していました。施工会社の熊谷組さんが空港ビルの突貫工事を進めてくれた。7日の震度6強の余震もあって“Xデー”は流動的でしたが、最後は国交省が13日に決めました」(伊藤社長)

※すべて雑誌掲載当時

(初沢亜利=撮影)