息子のためを思った行為が裏目に

むろん、母子の密着が悪い結果ばかりを生んだわけではない。秀頼は文武にわたる教養をしっかり身につけ、当時の教養人である親王や公家、僧侶らと比較しても少しも劣らなかったほどだったという。茶々が秀頼を溺愛するあまり、ただ甘やかされて育ったという指摘が多くなされてきたが、それは当たらない。

問題はこの母子が「幽閉」された世界において、徳川家の力が次第に全国に浸透しつつある状況を、的確に読む力を失っていたことである。

慶長19年(1614)8月、大坂冬の陣の開戦にいたる直前、いわゆる方広寺の鐘銘問題について申し開きをするために、駿府城(静岡県静岡市)を訪れた豊臣方の片桐且元は、いわば最後通牒つうちょうを突きつけられた。

① 豊臣氏が大坂城を明け渡し、大和あたりに国替えする
② 豊臣氏は諸大名と同様、江戸に屋敷を構えて居住する
③ 茶々を江戸へ人質として出す

という三カ条だった。

客観的に見れば、このいずれかをのむ以外に、秀頼が生き残る道はなかったが、息子とあまりに密着していた茶々は、それを冷静に受け止める力を失っていた。開戦となれば、駆けつける大名があると信じていた。仮に、高台院の意見が大坂城内で力を持ちうる状況であれば、豊臣氏存続の道も開かれたことだろう。

秀吉は、秀頼が健康に育つことを願い、あえて茶々に母乳で育てさせた。事実、嫡男は健康には育ったが、そのことが家の滅亡につながってしまったのだから、皮肉な話である。

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