平安時代とはどんな時代だったのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「藤原氏は娘を天皇の妃にして、その子を天皇に立てることで皇室との関係を深めた。政治の実権を握るために、天皇をだまして譲位させることもあった」という――。

※本稿は、繁田信一『源氏物語のリアル』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

京都・紫宸殿の正面
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朝廷を裏から牛耳る闇の女帝

源氏物語』の弘徽殿女御こきでんのにょうごについては、現代の読者の大半が、恐ろしい女性という印象を持っているのではないだろうか。いや、それどころか、彼女を悪い女性と見ている読者も、けっして少なくはないことだろう。

そして、これは、今にはじまったことではない。「古注釈」とも「古注」とも呼ばれる、明治時代以前に成立した数多の『源氏物語』の注釈書においても、弘徽殿女御は、「性なし」と断じられ、「悪后わるきさき」と評されてきたのである。古語に言う「性なし」とは、現代語に訳すならば、「性格が悪い」といったところであり、また、「悪后」の意味するところは、字面の通り、「悪い妃」であろう。

確かに、朱雀帝すざくていの母親(母后)として皇太后となり、「弘徽殿大后」と呼ばれるようになって以降の彼女などは、さながら、朝廷を裏から牛耳る闇の女帝のようであった。弘徽殿大后は、間違いなく、恐ろしい女性であり、ある意味において、悪い女性である。

例えば、彼女は、賢木巻の終わり、朱雀帝の寵愛する朧月夜おぼろづきよと光源氏との密通が露見したときにも、「このついでに、さるべきことども構へ出でむに、よき便りなり」と、まず何より、この密通の件を口実(「よき便り」)に、かねてより嫌っていた光源氏に制裁を加える(「さるべきことども構へ出でむ」)ことを考える。

彼女には、愛する女性に裏切られた気の毒な息子を慰めることよりも、積年の恨みを晴らすことの方が、ずっと重要だったのである。

『源氏物語』では性なし、悪后と叩かれる

かつて桐壺更衣きりつぼのこういを心底から憎んでいた弘徽殿大后は、桐壺更衣の死後には、桐壺更衣の忘れ形見である光源氏こそを、桐壺更衣の代わりに憎み続けていたのであった。

もちろん、弘徽殿大后の抱く憎悪は、光源氏にも十分に伝わっていた。朧月夜との密通が露見した後の須磨巻において、彼が自ら都を離れて須磨へと下るのは、他の誰でもない、弘徽殿大后を恐れたからであった。その頃、世間には、「遠く放ち遣すべき定めなども侍るなる」と、いずれ光源氏は罪人として公式に遠方への流罪に処されるだろうとの風聞が流れていたが、光源氏断罪の動きの中心にいるのが弘徽殿大后であることは、光源氏にもよくわかっていたのである。

こんな弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、やはり、恐ろしい女性であろう。が、彼女は、本当に悪い女性だろうか。古くは中世から「性なし」と断じられて「悪后」と評されてきた弘徽殿大后であるが、例えば、彼女が朧月夜との密通の件で光源氏を罰したとして、これは、悪行ではあるまい。